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鹿児島の旅と歴史
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南洲墓所
なんしゅうぼしょ
鹿児島県鹿児島市上竜尾町2ー1


 城山の北隣、鹿児島駅裏手の錦江湾を望む丘に、南洲公園に続いて南洲墓地があります。西郷隆盛をはじめ、西南戦争で戦死した2千名余の人が葬られています。
 西郷隆盛の左右には桐野利秋、篠原国幹、村田新八ら諸将の墓が並んでいます。墓地の北側には西郷隆盛を祀る南洲神社があり、近くに西郷南洲顕彰館があります。
 明治10年(1877)、城山の戦いが終わり、西郷以下40名を浄光明寺に仮埋葬しました。明治12年(1879)、城山近辺に散在していた約200名の遺骨を同墓地に改葬しました。
 野村忍介などが先頭に立ち九州各地に散在する約1800名の遺骨を改葬し、西郷隆盛を中心に眠る南洲墓地としたのでした。
 階段を上ると正面に西郷隆盛の墓が桜島を望むようにたたずんでいます。兄弟5人みな戦死した児玉兄弟や最年少の14歳にして死した池田烈士の墓なども含まれています。

 桐野利秋の墓です。
 薩軍総指揮官、4番大隊長です。無類の豪胆な性格で勤王の志士として活躍しました。「人切り半次郎」こと中村半次郎の名で有名です。陸軍少将、熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長を歴任しました。享年40才でした。
 篠原国幹の墓です。
 薩軍一番大隊長でした。桐野利秋と並び立つ猛将で知略家でした。私学校銃隊の監督もしていました。陸軍少将、近衛兵司令官を歴任。明治10年吉次越えの激戦地で陣頭指揮をとりました。享年42才でした。
 村田新八の墓です。
 薩軍二番大隊長でした。明治4年宮内大丞となり岩倉具視一行に加わり欧米を視察しました。明治7年薩摩に戻り私学校砲隊の監督に就任しました。城山最後の日、西郷隆盛の死を見届けた後自刃しました。享年42才でした。
 別府晋介景長の墓です。
 明治6年近衛少佐を辞して薩摩に戻り加治木区長となりました。西南の役では6番7番大隊長として出陣しました。明治10年9月24日早朝、岩崎谷口に向かい突進中銃弾を受けた西郷隆盛の命により介錯をしました。享年31才でした。


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