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熊本の旅と歴史
熊本の旅    熊本市

熊本城
くまもとじょう
熊本県熊本市本丸1ー1
Tel 096-352-5900


 日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。3つの天守閣、49の櫓、18の櫓門と29の城門を持つ堂々たる城郭です。武者返しと呼ばれる美しい曲線を描く石垣も見事です。
 戦国初期、熊本城の前身の隈本城主は菊池一族の出田(いずた)秀信でした。その後、鹿子木親員(かのこぎちかかず)が隈本を治め、城親冬(じょうちかふゆ)に代わりました。豊臣秀吉の九州平定の後は佐々成政に与えられました。肥後一国の統治に失敗した成政は切腹させられ、天正16年(1588)加藤清正が城主になりました。
 27歳の若武者、清正は、肥後国衆一揆で乱れ果てた領土を平定し、熊本市民に清正公(セイショコ)さんと今でも呼ばれ親しまれるほど偉業を成し遂げました。城下町の整備のほか、各河川の治水事業や干拓などを行い、神様としても祀られています。「隈本」が、現在の「熊本」に変わったのもこの時です。虎を退治したという朝鮮への出兵は入国4年後のだったそうです。
 加藤清正の父、清忠は美濃齋藤氏に仕える武士でした。清正は、永禄5年(1562)、尾張国愛智郡中村(現在名古屋市)に生まれ、同郷で親戚ともいわれる豊臣秀吉に仕えました。最初の戦功は天正9年(1581)の鳥取城攻めだったそうです。その後、幾多の戦で勇猛果敢に戦い武功をあげました。賤ヶ岳の戦いでは七本櫓の一人として全国に武勇を轟かせました。 
 熊本城は加藤清正以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。
 しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火と折からの強い風にあおられて大・小天守閣をはじめ多くの櫓や建物を焼失してしまいました。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。焼け残った宇土櫓や東竹之丸の櫓群は国指定重要文化財になっています。



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