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長崎の旅と歴史
長崎の旅        南島原市

原城址
はらじょうし
長崎県南島原市南有馬町乙


 原城址は明応5年(1496)、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純(8代目)によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害でした。
 城構えは本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、出丸などからなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。有馬晴純の代の時は全盛時代となりました。
 有馬義直時代には義直が家臣ともども洗礼をうけ、キリシタンとなりました。このため領民も次々と改宗し、領内の寺社は教会へとかえられていきました。その頃、佐賀の龍造寺により再三侵略されました。島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利することが出き、島原半島の南部をかろうじて維持していました。
 義直の子、晴信は一旦キリシタン禁圧策をとりましたが、軍事的な理由でキリシタン保護策に変えました。有馬支配下の大多数の領民がキリシタンになりました。仏教徒は弾圧をうけ、寺社はことごとく破壊されたそうです。晴信は慶長17年(1612)に岡本大八事件に連座し配流・切腹となってしまいました。

岡本大八事件
 晴信は、有馬家父祖の代に領していた肥前杵島、藤津、彼杵の3郡が以前龍造寺氏に奪われその後鍋島氏の領地となっていたのをとりもどしたいとの野望を持っていました。本多正純の家臣、岡本大八はポルトガル船撃沈と長崎奉行暗殺実行で願いを聞き入れると密約しました。
 本多正純に旧領地の下賜について伺いをたてたところ幕府はそんな約束などしていないことが分かりました。長崎奉行を暗殺しようとするとは不届至極として大八は火刑にされました。晴信も領主としてあるまじき行為であると閉門謹慎を命ぜられ、後に切腹させられました。これが岡本大八事件というものです。

 岡本大八事件の後、一時有馬領は没収されました。その後、家康の命により、嫡子直純に有馬領四万石が下賜されました。父が切腹されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例のことでした。15歳の時から側近として仕えていたことと、家康の曾孫国姫を妻にしていたことから許されたようです。
 直純は家督相続は許されたものの、藩内でキリスト教を取り締まるよう厳命されました。その直純も2年後には宮崎に転封になってしまいました。
 その後、元和2年(1616)大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となりました。松倉氏は更に過酷なキリスト教追放政策を実施しました。寛永14年(1637)、この廃城となっていた原城に一揆の人々が籠城しました。「島原の乱」の舞台になったのです。

 天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子で本名は益田四郎時貞です。島原の乱では若干15歳という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対戦しました。88日間原城で籠城しましたが圧倒的な幕府軍勢力の総攻撃で落城しました。本丸で斬首され長崎で晒し首にされました。
天草四郎時貞墓碑


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