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長崎の旅と歴史
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興福寺
こうふくじ
長崎県長崎市寺町4ー32
Tel 095-822-1076


 東明山興福寺(こうふくじ)は、長崎三福寺の一つで日本最古の黄檗宗の唐寺です。三江(南京)出身の信徒が多いため、南京寺といわれ、山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれています。 
 元和6年(1620)頃、真圓(しんえん)が小庵を造ったことに始まります。第2代黙子如定(もくすにょじょう)は日本最古の眼鏡橋を架けたことでも有名です。第3代超然は南画の祖として敬まれています。
 江戸時代初期の長崎は、朱印船貿易、唐船貿易の奨励により中国人が多く住んでいました。キリスト教禁令で仏教徒であることを証明するために、興福寺、崇福寺、福済寺、聖福寺など、唐寺が次々に建てられたのでした。
 日本で黄檗宗を開いた明の高僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師も初めての渡航後、住職として滞在し、大きな堂宇が建立され隆盛を誇りました。大雄宝殿(本殿)と旧唐人屋敷門は国の重要文化財に指定されています。

 興福寺に最初に建てられた山門は、3間3戸8脚の総朱丹塗りの豪壮雄大な門です。入母屋造りで単層屋根になっています。山門上部の扁額「初登宝地」「東明山」は隠元禅師の御書です。
興福寺山門
 山門は、承応3年(1654)隠元禅師が住持中、諸国より寄せられた多大な寄進で建てられました。寛文3年(1663)の長崎大火で全焼しましたが、元禄3年(1690)に、日本人工匠の手で再建されました。細部は和風様式になっています。原爆で被害を受けましたが復元されています。
興福寺山門

 興福寺本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。本堂は寛永9年(1632)黙子如定が建立しましたが、寛文3年(1663)の市中の大火で焼失。再建されましたが、慶応元年(1865)の暴風で大破、明治16年(1883)新築されました。
興福寺本殿
 雄大な重層切妻造りで、国の重要文化財に指定されています。すべて中国技術者の手による純中国建築で、資材も中国より運送して建造されたそうです。柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻されています。氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶などは珍しく、中国南方建築の代表作とされています。
興福寺本殿

 興福寺の媽姐堂(まそどう)は天海司命堂と呼ばれています。寛文3年(1663)の市中大火で焼失し、寛文10年(1670)頃、再建された興福寺最古の堂宇です。本尊は、天后聖母船神で、脇立は赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳です。建築様式は和風を基調とし、内外総朱丹塗り、黄檗天井の前廊、半扉、内部化粧屋根式天井など唐風も見られる建物です。
興福寺媽姐堂
  媽姐(まそ)とは海の航海の守護神で、唐船には必ず祀られていました。中国宋代の福建省にあった土俗的信仰でしたが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られたそうです。船が港に在泊中、媽姐像は船から揚げられ媽姐堂に安置され、航海安全を祈りました。長崎における唐寺は最初、媽姐堂として発足したようです。
興福寺媽姐堂

 旧唐人屋敷門は天明4年(1784)の唐館全焼の大火以降の唐人の住宅門と推定されています。この門には中国特産の広葉杉が使われていて、建築様式も中国式特有のものです。扉は二重で、内門は貴人来臨専用となっています。昭和35年(1960)、唐人屋敷に遺存した門は興福寺に移築されました。
旧唐人屋敷門
 元禄2年(1689)十善寺郷に1万坪の広大な唐人屋敷ができました。来泊唐人の民宿が禁じられ、皆このここで居住するようになりました。 旧唐人屋敷門はこの時代の遺構として国の重要文化財に指定されています。
旧唐人屋敷門

 鐘鼓楼は、寛文3年(1663)の大火の後、元禄4年(1691)に五代悦峰禅師により再建された堂宇です。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれていました。梵鐘は戦時中に供出して今はありません。1階は禅堂として使用されました。
興福寺鐘鼓楼
 2階は、梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、花頭窓が四方に開き、周囲に勾欄をつけてあります。軒回りは彫刻彩色で装飾され、他の木部は朱丹塗りです。長崎県の有形文化財に指定されています。屋根の鬼瓦は外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神になっています。.
興福寺鐘鼓楼

 中島聖堂(長崎聖堂)は東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともには、日本三聖堂のひとつに数え上げられています。中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれ、長崎奉行の保護下で隆盛を極めました。昭和34年(1959)杏檀門保存のために興福寺に移築されました。門扉に大学章句の一節が彫ってあるので、大学門と呼ばれています。
中島聖堂遺構大学門
 中島聖堂は、正保四年(1647)に儒学者・向井元升(げんしょう)が後興善町に孔子廟及び学舎を開いたことに発します。火災などで一時衰退しましたが、元升の子元成が京より帰来し再興させました。宝永7年(1710) 伊勢町の旧鋳銭所跡(中島銭座)に移り、翌年再建されました。
中島聖堂遺構大学門

 興福寺にある三江会所門(さんこうかいしょもん)は江南、浙江、江西の3省出身者が明治初期に設立した集会所の門です。明治元年(1868)唐人屋敷の処分が始まると、中国の3省出身者が霊を祀る三江祠堂を建て、明治13年)三江会所を設置しました。原爆で大破して、今は門だけが現存しています。
興福寺三江会所門
 中国の3省出身者にとって興福寺は創建以来の菩提寺であり、同郷会館でもありました。三江会所門は中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物です。門扉を中心に左右に丸窓を配しています。肘木(ひじき)、紅梁(こうりょう)、彫刻など細部は純中国式です。
興福寺三江会所門

 庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、正式には「はんぽう」いい、お坊さんたちに飯時を告げるため木彫りの魚です。中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)を象っています。
興福寺魚板


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