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長崎の旅と歴史
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崇福寺
そうふくじ
長崎県長崎市鍛冶屋町7ー5
Tel 095-823-2645


 聖壽山崇福寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数え上げられています。寛永6年(1629)長崎に居留していた中国福建省の人たちが故郷の僧超然を迎えて創建しました。
 中華様式の唐寺としては日本最古のお寺で、福建省の出身者が多いため福州寺といわれました。近くの興福寺は南京出身者が多いため南京寺といわれました。
 長崎の唐寺の特色は媽祖堂(まそどう)をもっていることです。媽祖は海の神様であり、当時、唐船主たちが航海安全を祈願して祀ったものです。堂内の仏像仏具類は、中国人名匠の手によるもので、明朝末期の貴重な物です。
 第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定されています。三門、鐘鼓楼、護法堂、媽姐門は国の重要文化財に指定されています。他にも県指定有形文化財が3つ、市指定有形文化財が6つある文化財の宝庫になっています。

 入口にある門は三門と呼ばれ二階建ての楼門になっています。竜宮城に似ていることから竜宮門とも呼ばれています。3つの門扉があることから三門といわれます。また「三門」は「空解脱門」「無想解脱門」「無作解脱門」であり、悟りの境地に至るために通る三つの門を意味しています。
崇福寺三門
 嘉永2年(1849)棟梁大串五郎平が、中国人の指導を受けて造ったそうです。中央にある「聖壽山」の扁額は隠元禅師の筆です。国の重要文化財に指定されています。
崇福寺三門

 崇福寺の第一峰門は国宝です。唐門・海天門・二の門・中門・赤門ともいわれています。「第一峰」の扁額は隠元禅師の弟子で崇福寺の住職を務めた即非禅師(そくひ)禅師の書です。三門ができる前はここが第一の門だったそうです。
崇福寺第一峰門
 第一峰門の扉には、青い蝙蝠(こうもり)と牡丹の紋が飾られています。蝙蝠の蝠と福は同じ発音で幸福を意味します。牡丹の花は百花の王、強さを表す縁起物です。明暦元年(1655)この門で隠元禅師を迎えたそうです。
崇福寺第一峰門

 崇福寺の本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。唐の商人の寄進により、中国で切り組みされ唐船で運ばれ、生保3年(1646)に建立された堂宇です。長崎市に現存する最古の建物で、国宝に指定されています。
崇福寺本堂
 当初は単層、平屋建てでした。天和元年(1681)の頃、日本人棟梁の手によって2階建てに重層化されました。1階部分は、軒回りに擬宝珠付き垂花柱があり、全廊部分が黄檗天井と呼ばれるアーチ型の天井になっています。2階部分は和様を基調とし、日中工匠の合作の美しさを表しています。
崇福寺本堂

 護法堂の隣に鐘鼓楼が建っています。もとは六角円堂で、書院前庭の南隅にあったそうです。享保13年(1728)今ある位置に現在の重層の堂宇が建てられました。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれています。梵鐘や太鼓の音を響かせるために、丸窓、火燈窓など開口部が多くなっています。
崇福寺鐘鼓楼
 鐘鼓楼は軸部の部分は中国人名匠の手により造られたようですが、棟札に「木匠頭荒木治右衛門」との記があることから護法堂と同じく日中工匠の合作と考えられます。国の重要文化財に指定されています。
崇福寺鐘鼓楼

 護法堂は享保16年(1731)中国工匠によって再建された堂宇です。中央に観音堂、右が関羽を祀る関帝堂、左に韋駄天を祀る天王殿があります。即非が書いた扁額の「護法蔵」から護法堂と呼ばれるようになりました。
崇福寺護法堂
 軸部は中国で切り組み、唐船で運び、日本人棟梁が建てたと思われます。天井や木の組み方、扉などは中国様式、破風や懸魚などは日本様式です。鐘鼓楼と同じく日中工匠の合作と考えられます。国の重要文化財に指定されています。
崇福寺護法堂

 媽祖門は、文政10年(1827)に再建された建物です。媽姐堂の門として、また大雄宝殿と方丈(僧堂)を結ぶ渡り廊下としての役割も兼ねています。媽祖門を構えた媽祖堂は、全国で唯一、ここ崇福寺のみで国の重要文化財に指定されています。
崇福寺媽姐門
 8脚門3間3戸形式で日本様式が基調となっていますが、扉の前部は黄檗宗特有の黄檗天井で造られ、後部は山形(船底)天井で中国様式も取り入れられています。
崇福寺媽姐門

 媽姐堂は寛政6年(1794)、唐船主らが白砂糖1万斤(きん)の代銀12貫目を寄進し、大改修を加えて再建されたものといわれています。媽姐(まそ)とは海の航海の守護神で、唐船には必ず祀られていました。
崇福寺媽姐堂
 基壇上の勾欄(こうらん)・前廊の黄檗(おうばく)天井・半扉などは中国様式で細部は日本様式です。媽姐像を中心に安置し、右側に順風耳の立像、左側に千里眼の立像があります。堂と門の間の石畳は、寛文11年(1671)に造られたもので長崎でも最も古い時代のものです。
崇福寺媽姐堂

 県有形文化財に指定されている梵鐘は、正保4年(1647)鍛冶屋町の初代鋳物師阿山助右衛門が作ったものです。長崎市内の寺院の梵鐘を6個鋳造していますが、今残っているのはこの鐘だけです。開創時の29名の檀越名と554両という寄進額が刻まれいます。
崇福寺梵鐘

 大釜は天和2年(1682)に2代目住職千凱(千呆)が鍛冶屋町の阿山家二代目鋳物師安山(あやま)弥兵衛に造らせたものです。 大飢饉に襲われた多くの人々を救うため、この大釜で粥を炊き命を救ったということです。
崇福寺大釜


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