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長崎の旅と歴史
長崎の旅        島原市

島原城
しまばらじょう
長崎県島原市城内1ー1183ー1
Tel 0957-62-4766


 元和2年(1616)大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政によって元和4年(1618)から7年の歳月を費やして築かれた城です。本丸には安土桃山様式建築の粋を集めた総塗り込め白壁の美しい五層の天守閣がそびえます。三層櫓が3カ所ある豪壮堅固な城構えです。
 南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所あったそうです。内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である三の丸が造られていました。別名を森岳城、高来城ともいわれていたそうです。
 城主は譜代の高力、松平、戸田と代わりましたが安永3年(1774)、松平(深溝)忠恕が7万4千石で入封して以降世襲して明治に至りました。その間、延宝2年(1674)の殿舎の焼失、安永6年(1777)の台風による三重櫓・平櫓の倒壊、寛政4年(1792)の眉山爆発による被害など何度も損害を受けてきました。
 現在の天守閣は昭和39年(1964)に再建され、資料館として利用されています。天守閣は360度見渡せる展望所になっていて、遠く普賢岳なども一望できます。この景色からキリシタンの悲しい歴史があったことなど思うことができません。

島原の乱
 島原の乱は、島原半島の南部に位置する原城跡に籠城した島原天草のキリシタン農民と浪人衆が、幕府の大軍を相手に約3ヶ月もの攻防戦の末、幕府に多大な損害を与え、落城の際一人残らず殺害された日本史上の大事件でした。
 松倉重政とその子勝家の権力者としての刃は、キリシタンに止まらず、領民全てに向けられていました。参勤交代、公儀普請役など大名に課役を果たすため財政難となり、「搾れるだけ搾る」と農民からきびしい年貢の取り立てなどを行ないました。農民生活が窮迫し不満が高まっていました。
 20年前に天草を追放された宣教師ママコスが「25年後に天変地異が起こり、人は滅亡に瀕するであろう。この時16歳の天童が現れ、キリストの教えに帰依する者を救うであろう」と語っていました。各地に異常な現象が相次ぎ益田甚兵衛の息子四郎は幼少の頃から利発で救世主として慕われたのでした。
 島原半島の口之津村(現在の口之津町)の百姓の嫁が、年貢を収められずに捕らえました。身を切る冷たい川の水につけられて臨月の体だった嫁は、6日目に水中で子を産み落とし、そのまま母子ともに死んでしまいました。
 寛永14年(1637)10月、有馬でキリシタンの集会が行われ、代官の林兵左衛門はこれを怪しんでどなりこみ、逆に殺されてしまいました。それが一揆暴発の発端でした。
 翌日、島原の農民たちは島原城を攻めました。天草でも立ち上がり、本渡で激戦の末、天草番代三宅藤兵衛を討ち死にさせました。富岡城(現在の天草郡苓北町)も攻撃しましたが両城とも落とせませんでした。そして原城で籠城したのです。
 一揆勢、島原・天草軍合わせて2万8千、幕府軍12万でした。寛永15(1638)年元日、幕府軍が総攻撃しましたが失敗し、総大将板倉重昌が戦死しました。後を受けた松平信綱は持久戦に持ち込み2月27日の総攻撃で陥落させました。

 籠城用の梅干かめが展示されています。旧藩時代、島原城の本丸に置いてあったものです。籠城用としての梅干を入れてあった「かめ」です。
籠城用の梅干かめ
 この石の水道管は島原城桜門外の水源と城内三の丸の間に敷設されていたものです。中央をくりぬいた石を漆喰で接合してあります。
石の水道管


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