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大分の旅と歴史
大分の旅        杵築市

杵築城跡
きつきじょうせき
大分県杵築市杵築16ー1
Tel 0978-62-4532


 豊後の大友氏の2代目である親秀の6男親重は建長2年(1250)、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられました。そして、地名の木付を氏とし名乗り、竹ノ尾の高台に城を築きました。
 木付氏4代頼直は海と断崖に囲まれた要害堅固な地に城を移築し、応永元年(1394)に完成させ、木付城と命名しました。これが杵築城のはじまりです。
 戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となりました。天正14年(1586)、豊臣秀吉の九州征伐を前に、薩摩の島津義弘は九州を支配しようと3万の軍勢を率いて豊後の大友宗麟を攻めました。
 豊後の諸城は次々と落とされ木付城に迫りました。城を守る木付鎮直は島津側の新納(にいろ)武蔵守勢の猛攻を受けましたが、籠城して奮戦し、天正15年(1587)には島津勢を撃退しました。
 この戦いで杵築城は難攻不落の城として名を高め、「勝山城」とも呼ばれるようになったそうです。
 文禄2年(1593)、大友宗麟の後を継いだ大友義統(よしむね)が文禄の役で、敵の大軍を恐れて前線より逃走したことから改易されてしまいました。
 木付鎮直の子統直(むねなお)は帰国の途中、門司の浦で宗家大友氏滅亡の悲劇を嘆いて自刃してしまいました。この悲報は直ちに木付城にいた父鎮直に伝えられ、鎮直夫妻は城内で自害、ここに木付氏17代、340年余の歴史が終わったのです。
 慶長5年(1600)、関ケ原の合戦の軍功により細川忠興が豊後中津城主となると、木付城には家老の松井興長が城代となりました。
 その後、正保2年(1645)、城主となった松平英親は城の平地移転を完成させました。正徳2年(1712)、3代藩主松平重休の時、徳川6代将軍家宣の朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたため、松平重休は幕府に伺いをたてた後、木付を杵築と改め現在に至っているそうです。
 現在は本丸、二の丸、三の丸の石垣や濠の一部が残り、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が昭和45年(1970)に建てられています。


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