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大分の旅と歴史
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府内城跡(大分城址公園)
ふないじょうせき(おおいたじょうしこうえん)
大分県大分市荷揚町4地内
Tel 097-537-5626


 府内城は慶長2年(1597)、石田三成の妹婿である福原直高が築いた荷揚城が始まりです。その後、竹中重利が未完成だった城内に4層の天守閣や楼閣などを建築し、名を府内城と改めました。
 府内とは大分の別称で、古代この地に豊後国府が置かれていたことに由来しています。鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点になりました。
 慶長6年(1601) 、関ヶ原の戦いの後、竹中重利が3万5千石で入城しました。城の大改修を行ない、慶長7年(1602)には4層天守、櫓、山里曲輪、内堀を完成させ、慶長10年(1605)には外堀を完成させました。
 竹中重利は豊臣秀吉の軍師、竹中半兵衛の子です。その後、重利の嗣子2代重義(しげよし)は長崎奉行職なども兼任しましたが残虐非道なキリシタン弾圧で知られています。寛永11年(1634)不正発覚で江戸で切腹させられ、竹中家は断絶しました。
 その後、日根野吉明(ひねのよしあきら)が城主となりましたが、跡継ぎがなく、断絶しました。そして、しばらくのあいだ城番が置かれました。寛保3年(1743)大火により天守を含む大部分の建造物が焼失し、その後、天守は再建されませんでした。
 万治元年(1658)に大給(おぎゅう)松平家の分家の5代目の松平忠昭(ただあき)が入封しました。2万2千石の大名として明治まで松平家が続きました。明治初期に本丸、東丸、西丸の建造物以外は破却され、堀の一部は埋め立てられてしまいました。
 太平洋戦争の際、空襲により櫓が数棟焼失しました。
 府内城は海に接する城で、内堀と海とを分断する「帯曲輪(おびくるわ)」が今でも鮮やかに残っています。濠や石垣は残り、城跡は公園になっています。櫓や城門、廊下橋などが復元されています。


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