あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
茨城の旅と歴史
茨城の旅      鹿嶋市

鹿島神宮
かしまじんぐう
茨城県鹿嶋市宮中2306−1
Tel 0299-82-1209


 鹿島神宮(かしまじんぐう)は、皇紀元年(紀元前660年)の建造とつたえられ、常陸国一宮で、日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。同県神栖市にある息栖神社、千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社の一つにも数えられている名社です。正月三が日は全国から60万人以上が参拝し、笠間稲荷神社(笠間市)に次いでいます。
 平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳(えんぎしき・じんみょうちょう)によると、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけで、皇室との関係も深いものでした。
 御祭神・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、天孫降臨に先立って、香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)とともに、大国主命と国譲りの交渉を行いました。その後、東国を開拓・平定して、当時水陸交通の要所であった鹿島の地に鎮座したと伝えられています。
 神武天皇の東征に際しては、熊野で病いに倒れた天皇の軍勢に対し、高倉下を通じてフツの霊剣を降して危難を救いました。この剣は崇神天皇の御代、石上神宮に奉斎され、鹿島神宮にはその代わりに制作されたという直刀が伝わり、国宝に指定されています。
 東北地方の平定にも神威を示し、常陸国・陸奥国には鹿島の御子神社が祀られました。鹿島神宮の正殿は、神社には珍しく北を向いており、香取神宮と共に、北方の蝦夷に対する護りの要であり、国土鎮護の宮でもあったのです。
 中臣鎌足が鹿島の中臣氏の出であることから、鹿島社の祭神は奈良の三笠山に迎えられ、藤原氏の氏神とされました。これが春日大社です。藤原氏が天皇の外戚として実権を握るようになると朝廷からも毎年「鹿島使」という勅使が毎年送られてくるようになりました。
  弘仁3年(812)香取神宮・住吉大社とともに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮を定められています。奉幣使もひんぱんに派遣されたようです。中世には源頼朝をはじめとして武家の崇敬が篤く、武神として仰がれました。養和元年(1181)頼朝は社領を鹿島神宮に寄進するとともに、鹿島政幹を鹿島神宮総追捕使とし、建久2年(1191)には神馬を奉納しています。
 弘安5年(1282)文永・弘安の役に際しての蒙古降伏祈願の奉賽として幕府より社領が寄進されました。このように武家政権の信仰も得て、社殿や宝物類の奉納や所領寄進が繰り返されてきました。
 慶長10年(1605)徳川家康が関ヶ原の合戦戦勝の奉賽として本殿を造営し、神領2千石を寄進しました。元和4年(1618)には秀忠が縦一列に並ぶ本殿、石の間、幣殿、拝殿を造営し、家康が建立した本殿は奥宮の社殿としました。
 現在の社殿は、楼門は水戸初代藩主徳川頼房、奥宮社殿は徳川家康、本殿、石の間、幣殿、拝殿は2代将軍秀忠の奉納によるものです。本殿造替時に祭神を仮に祀る仮殿も含めいずれも国の重要文化財に指定されています。
 また本殿近くにある杉の巨木は樹齢1200年と推定されるご神木です。鹿島神宮の境内も国史跡、国特別史跡に指定されています。境内の広さは約70ヘクタールもあり、このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されています。
 例祭は毎年9月1日に献幣使が参同して行われます。12年に一度の式年大祭(御船祭)と中間の6年目には天皇陛下の御使の勅使が派遣される勅使参向の大社として、全国の人々より崇敬されています。

鹿島神宮楼門(国重文)
 鹿島神宮の楼門は寛永11年(1634)、水戸初代藩主徳川頼房が奉納したものです。頼房は光圀(水戸黄門)の父親になります。鮮やかな朱色の楼門は、熊本の阿蘇神社、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)と並ぶ日本三大楼門の一つに数え上げられています。
鹿島神宮楼門
 総朱漆塗りの2階建ての楼門の中心に掲げられている「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元帥の直筆によるものです。楼門は銅板葺き、入母屋造りの三間一戸楼門です。昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮楼門

鹿島神宮拝殿・幣殿・石の間(国重文)
 鹿島神宮の拝殿・幣殿・石の間は元和4年(1618)に江戸幕府の2代将軍徳川秀忠により造営されています。拝殿は白木作りの簡素な意匠で柱を角柱とし、間口5間、奥行3間、組物は出組の入母屋造りです。幕府の大棟梁鈴木長次が担当しました。
鹿島神宮拝殿
 拝殿は拝礼を行うための建物で、仏教寺院の礼堂の影響を受けて平安時代から神社建築に用いられるようになりました。この拝殿と本殿の間に玉串を捧げるための幣殿が設けられています。拝殿の後方に幣殿を凸字形に建て、その後方に石敷きの「石の間」と呼ばれる渡り廊を隔てて本殿に接続する一種の複合社殿になっています。
鹿島神宮拝殿
 幣殿は間口2間、奥行1間、続く石の間は間口2間、奥行1間です。石の間は漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。鹿島神宮の拝殿、幣殿、石の間は明治44年(1911)に国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮拝殿

鹿島神社本殿(国重文)
 鹿島神宮の本殿は正面の間口を3間とする三間社流造りです。檜皮葺きで、1間の向拝が付けられています。元和5年(1619)、徳川秀忠により奉納されています。幕府の大棟梁鈴木長次により造営されています。
鹿島神宮本殿
 前面の庇は身舎と同じ高さに床を張り建具を入れて室内に取り込んでいます。柱状の組物と出組とし中備えに蟇股を置いています。漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。本殿は明治34年(1901)に国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮本殿

鹿島神宮境内(国史跡)
 鹿島神社の境内は昭和61年(1986)に国の史跡に指定されています。平成17年(2005)には国の特別史跡に追加されています。奥参道は「奥馬場」とも呼ばれ、毎年5月に流鏑馬神事が行われます。周辺には約700種に及ぶ南限・北限の植物が自生しており、境内は県の天然記念物にも指定されています。
鹿島神社境内

鹿島神宮仮殿(国重文)
 鹿島神宮の仮殿は本殿の造営に際して神霊を仮安置するために設けられた建物で、権殿ともいわれます。間口3間、奥行2間、一重、入母屋造り、檜皮葺きで、正面に1間の向拝を付けています。この仮殿は元和5年(1619)に建立され、本殿と同じく幕府大棟梁鈴木長次の手によるものです。
鹿島神宮仮殿
 土台建で四方に縁をめぐらし、組物出三斗、組物間は蟇股を飾り、軒は二軒繁垂木です。造営当初は拝殿の左前方にあって西面していましたが再三位置を変え、昭和26年(1951)に現在の場所に移されています。昭和51年(1976.)に国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮仮殿

鹿島神社奥宮(国重文)
 鹿島神社奥宮は桃山時代の慶長10年(1605)に徳川家康により鹿島神社本殿として造営されました。元和5年(1619)、徳川秀忠により新たに本殿が奉納され奥宮として引き遷したものです。
鹿島神宮奥宮
 奥宮は間口3間、奥行2間、向拝一間の社流造り、檜皮葺きの社殿です。総白木作りの質素な建物で、意匠も簡素ですが、彫刻には桃山時代の大胆な気風もうかがえます。鹿島神社奥宮は境内の社殿では最も古く、明治34年(1901)に国の重要文化財に指定されています。
鹿島神宮奥宮
 奥宮の前にある芭蕉の句碑の上部の穴は、耳を近けると「海の音」が聞こえるといわれています。


 枯枝にからすのとまりけり秋の暮
芭蕉句碑

鹿島神宮宝物館
 鹿島神宮の宝物館には茨城県内唯一の国宝として知られる直刀(ちょくとう)があります。直刀とは刀身がまっすぐで反りのない刀のことです。我が国最古最長の直刀で、鹿島神宮に武甕槌神の御神刀と伝わる全長約3mの「ふつの霊剣(ふつのみたまのつるぎ)です。
鹿島神社宝物館

鹿島神社鹿園
 鹿島神社境内には鹿園があります。鹿島神宮では鹿は御使いであるとされ、藤原氏によって奈良に春日大社が創られた時には、分霊を背中に乗せて鹿島から奈良まで運んだそうです。現在いる鹿は、鹿島から移された春日大社の鹿の子孫を再び受け継いでいるそうです。
鹿園

鹿島神社要石
 鹿島神社の境内には地上に出ている部分が直径30cm、高さ7cmほどの要石(かなめいし)と呼ばれる石があります。この石はは地震を起こす大なまずの頭を押さえているといわれる霊石です。いくら掘っても全容は堀り尽くせないといわれ、「鹿島の七不思議」にも数えられています。
要石

 要石を打ち下ろし地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神だとされています。「万葉集」にも詠われる「鹿島の神」は要石を鎮護する地震の守り神として現在に伝わっています。かつて水戸藩主徳川光圀(黄門)が7日7晩、要石の周りを掘らせましたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったといわれています。
要石


茨城県トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置