あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
神奈川の旅と歴史
神奈川の旅      鎌倉市

円覚寺
えんがくじ
神奈川県鎌倉市山ノ内409
Tel 0467-22-0478


 瑞鹿山円覚寺は鎌倉時代、禅宗に深く帰依していた第8代執権、北条時宗が、元寇の戦死者を慰霊するために、中国からの高僧、無学祖元(むがくそげん)を開山とし、弘安5年(1282)に創建しました。(無学祖元は当時建長寺の住持をしていました。)
 鎌倉5山第2位で臨済宗円覚寺派の大本山です。第1位の建長寺とならび鎌倉を代表するお寺で、約6万平方mという寺域に、大小30もの建物が建ち並んでいます。そして境内全体が国の史跡に指定されていて、庭園は国の名勝となっています。
 円覚寺の本尊は木造釈迦如来坐像です。度重なる火災により衰退しましたが、小田原城主や江戸幕府により、その度に復興してきました。現在の建物は関東大震災以後に修復されています。
 広大な境内には総門、山門、仏殿、方丈などの伽藍が一直線に並び、多くの塔頭寺院が建ち並んでいます。時宗は弘安7年(1284)に世を去り、この円覚寺に葬られました。塔頭・仏日庵には時宗の廟所があります。洪鐘(梵鐘)や舎利殿は国宝に指定されています。
 緑深い山ノ内の谷戸に抱かれた境内には、いつも美しい花が咲いています。夏目漱石や島崎藤村も参禅した帰源院(きげんいん)や仏日庵(ぶつにちあん)、黄梅院(おうばいいん)など18の塔頭が山かげにひっそりと点在しています。


円覚寺舎利殿(国宝)
 円覚寺の舎利殿は神奈川県唯一の国宝建造物です。境内の奥に位置する塔頭(たっちゅう)正続院の中にあります。舎利殿は入母屋造、こけら葺きです。一見2階建てに見えますが一重裳階(もこし)付きの建物です。
円覚寺舎利殿
 堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があります。その左右には地蔵菩薩像と観音菩薩像が立っています。舎利殿は鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したもので、15世紀(室町時代中期)の建築と推定されています。
円覚寺舎利殿

円覚寺境内(国史跡)
 円覚寺の伽藍は鎌倉独特の谷戸(やと)と呼ばれる谷に沿って建てられています。山門を入り、仏殿、方丈へと徐々に登っていく配置は中央が一直線に並んだ禅宗独特のものです。奥にある国宝の舎利殿は室町中期の建物です。円覚寺境内は昭和42年(1967)に国の史跡に指定されています。
円覚寺境内

円覚寺庭園(国名勝)
 円覚寺庭園は昭和7年(1932)に国の名勝に指定されています。創建当時、蘭渓道隆によって作庭されたといわれています。方丈の前の庭園には百観音と呼ばれる石仏群があります。これらの石仏は、もとは松嶺院内補陀落迦観自在窟にあったものです。方丈の裏にも方丈庭園が広がっています。
円覚寺庭園

ビャクシン
 方丈前にはビャクシン(柏槇)の大木が立っています。ビャクシンはイブキとも呼ばれ大きいものは25m、直径2mになります。円覚寺のものは樹齢700年以上といわれ、開山した無学祖元により植えられたといわれ、鎌倉市の天然記念物に指定されています。
ビャクシン

円覚寺山門
 神奈川県指定重要文化財の山門は江戸時代の天明5年(1785)、開山した無学祖元禅師の五百年遠諱の年に大用国師によって再建されました。二層構造の立派な門で、楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られています。
円覚寺山門
 円覚寺の山門(三門)は三解脱門ともいわれます。空、無相、無願を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払って涅槃・解脱の世界である仏殿に至る門とされています。円覚興聖禅寺の扁額は、北条貞時の時代に伏見上皇より賜ったものです。
円覚寺山門

円覚寺仏殿
 円覚寺の仏殿には本尊である宝冠釈迦如来が祀られ、左右に梵天、帝釈天が安置されています。禅宗様式である七堂伽藍の中心に位置する最も重要な所です。「大光明寶殿」の扁額は、後光厳上皇から賜ったものです。
円覚寺仏殿
 仏殿は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊しましたが、昭和39年(1964)に再建されています。天井には前田青邨(せいそん)画伯監修、守屋多々志(ただし)画伯による雲竜の図が描かれています。 達磨忌 、臨済忌、祝聖などの行事や毎朝の暁天坐禅が、ここで行われています。
円覚寺仏殿

円覚寺選佛場
 仏殿正面に向かって左側に円覚寺の選佛場が建てられています。選仏場とは、仏を選び出すという意味で、修行僧の坐禅道場のことです。創建当初の建物は裳階(もこし)付きの大きな建物でしたが、永禄6年(1563)の大火で焼失しました。
円覚寺選佛場
 元禄12年(1699)、伊勢長島2代藩主・松平忠充が、江戸の月桂寺、徳雲寺住職一睡研秀の薦めにより、大蔵経とともに禅堂を建立したのが、この選仏場です。関東大震災で仏殿が倒壊したため、昭和39年(1964)の再建まで仏殿を兼ねていたそうです。
円覚寺選佛場

円覚寺居士林
 選仏場の隣に円覚寺の居士林(こじりん)が建てられています。居士とは在家(一般の人)の禅の修行者を指し、居士林は禅を志す在家のための専門道場です。昭和3年(1928)に柳生基夫氏より東京牛込にあった柳生新陰流剣道場が寄贈され、移築された建物です。
円覚寺居士林

円覚寺方丈
 方丈とは元来、住職が居住する所ですが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座などの講演会や秋の宝物風入など、多目的に使われています。方丈の前庭には多くの観音像が置かれ、「百観音」といわれます。
円覚寺方丈

円覚寺開基廟
 二度にわたる蒙古襲来という国難に向かった北条時宗は、この場所で禅の修行に打ち込み、精神鍛錬に励んだそうです。時宗の死後、このお堂の下に遺体を安置し、廟所としたといわれています。現在の開基廟は塔頭の佛日庵の中にあり、江戸時代の文化8年(1811)に改築された建物です。
円覚寺開基廟

円覚寺白鹿洞
 仏日庵の前に「白鹿洞(びゃくろくどう)」といわれる小さな洞窟があります。円覚寺の山号の「瑞鹿山」はここの伝説から生まれています。円覚寺の創建開堂の時、無学祖元の法話を聞くために山中から白鹿が出てきてこれに連なったという伝説です。その鹿の一群がこの洞窟から出てきたそうです。
円覚寺白鹿洞

円覚寺黄梅院
 黄梅院(おうばいいん)は円覚寺がある谷の最も奥にある塔頭です。北条時宗の夫人である覚山尼(かくざんに)が夫の菩提を弔うために華厳塔を建立した場所です。文和3年(1354)、足利氏は円覚寺15世の夢窓疎石の塔所をこの地に建て黄梅院を開創しました。
円覚寺黄梅院

百観音霊場
 百観音霊場は養老2年(718)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされています。拙叟尊者が岩窟に百体の観音像を奉安したことが由緒となり、昭和58年(1983)に現在地に移されています。
百観音霊場

円覚寺洪鐘(国宝)
 円覚寺の洪鐘(おおがね)は建長寺の梵鐘とともに、昭和28年(1953)に国宝に指定されています。洪鐘とは大きな釣り鐘のことです。総高259.4cm、口径142cmで、正安三年の刻銘のある鎌倉時代の代表的な形の梵鐘です。
円覚寺の洪鐘
 正安3年(1301)、鎌倉幕府9代執権・北条貞時が、2度に渡る蒙古襲来で衰退した国家の安泰と民の幸せを祈り、物部国光に鐘を鋳造させました。国光は、大鐘のため二度失敗したそうです。北条貞時は、7日7夜江ノ島弁財天に参籠し、その加護によって3回目に鋳造に成功したそうです。鐘には「風調雨順 国泰民安」という願文が刻まれています。
円覚寺の洪鐘

円覚寺弁天堂
 北条貞時は洪鐘を江ノ島弁財天の加護で無事鋳造することができました。感謝するため円覚寺に大鐘を奉納する時に、弁天堂を建立しました。61年目ごとに3日間弁財天像を開帳する洪鐘祭は、700年以上の時を経た現在でも続いています。
円覚寺弁天堂


 神奈川県トップページへ  旅と歴史トップページへ


直線上に配置