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神奈川の旅と歴史
神奈川の旅      鎌倉市

高徳院
こうとくいん
神奈川県鎌倉市長谷4ー2ー28
Tel 0467-22-0703


 大異山高徳院は浄土宗のお寺です。創建された経緯はよくわかりません。鎌倉のシンボルともいうべき鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)を本尊としています。大仏は昭和33年(1958)に国宝に指定され、境内一帯も「鎌倉大仏殿跡」として国の史跡に指定されています。
 この寺は初めは真言宗で、鎌倉の極楽寺を開山した忍性も住持となっています。のち臨済宗になり、建長寺の末寺となりましたが、江戸時代の正徳年間(1711-1716)に増上寺の祐天上人によって再興され、浄土宗に改宗しています。
 大仏造立が始まったのは建長4年(1252)といわれ、吾妻鏡に僧・浄光が勧進した浄財が当てられたと伝えられています。大仏殿は建武元年(1334)と応安2年(1369)の大風と明応7年(1498)の大地震によって崩壊し、室町時代の末頃には「露坐の大仏」になりました。
 荒廃が進んだ大仏は、江戸中期に祐天が浅草の商人野島新左衛門の助力で、養国とともに復興させました。鋳掛修復させ念仏専修のお寺にさせ、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭・光明寺の「奥之院」にしました。関東大震災後も度々修理を行い現在に至っています。

銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
 鎌倉大仏である銅造阿弥陀如来坐像は像高約11.312m(台座を含めた高さは13.39m)、面長2.35m、眼の長さ1m、眉長1.24m、口広0.82m、耳長1.9m。螺髪(らほつ)の直径0.24m、螺髪の高さ0.18m(螺髪とは仏像の頭の突起で螺旋形をしています)、重量約121トンと桁違いの大きさです。
鎌倉大仏
 大仏は角張った平面的な顔をしており、肉髻(にっけい)と呼ばれる頭の頂上の飛び出た部分が平たいのが特徴です。猫背気味で、頭が大きめです。鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しています。鎌倉時代を代表する仏教彫刻で、銅造阿弥陀如来坐像として昭和33年(1958)に国宝に指定されています。
鎌倉大仏

鎌倉大仏殿跡(国史跡)
 鎌倉大仏と今はない大仏殿は、鎌倉幕府の全面的な支援で造営されたと考えられています。大仏殿跡は間口約44m、奥行約43m、中央柱間は約8m、脇柱間は約7m周囲に柱間約5mの裳階(もこし)が付いていたと思われます。平成16年(2004)に境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されました。
鎌倉大仏殿跡

ワチラーウット皇太子記念樹
 明治35年(1902)に来日したタイのワチラーウット皇太子が高徳院境内に松の木を植樹しました。しかし虫害のため枯れてしまいました。平成22年(2010)、プミポン・アドゥンヤデート国王の命で、駐日タイ王国大使が代替木を植樹しました。ワチラーウット皇太子はのちにラーマ6世となりました。
ワチラーウット記念樹

ブラチャーティポック国王お手植松
 ブラチャーティポック国王陛下(ラーマ7世)が昭和6年(1931)に来日し植樹された松が高徳院境内にあります。チャクリー王朝のラーマ7世となり、激動の時代を生き、タイにおける最後の絶対君主であり、最初の立憲君主となった国王です。
ラーマ7世お手植松

高徳院観月堂
 高徳院の観月堂は大仏の後方に建てられています。李朝後期の王宮の観月台であった建物です。後に日本に移築され、昭和14年(1939)、東京目黒の驪山荘から高徳院へ移築されました。徳川2代将軍・徳川秀忠が所持していたとされる聖観音像を安置しています。
高徳院観月堂


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