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神奈川の旅と歴史
神奈川の旅      鎌倉市

明月院
めいげついん
神奈川県鎌倉市山ノ内189
Tel 0467-24-3437


 福源山明月院は、臨済宗建長寺派のお寺です。明月庵は、この地の住人で、平治の乱(1159)で戦死した首藤刑部大輔俊道(としみち)の菩提供養のため、俊道の子・首藤刑部太夫山内經俊によって創建されました。俊通の妻は源頼朝の乳母だった山内尼だといわれています。。
 康元元年(1256)、鎌倉幕府5代執権・北条相模守時頼がこの地に持仏堂を造営し、最明寺と名付けました。時頼は30歳で出家し、覚了房道崇と号しましたが、37歳で亡くなり、時頼の死後、最明寺は廃絶しました。
 時頼の息子の鎌倉幕府8代執権・北条時宗は福源山禅興仰聖禅寺(禅興寺)と改名して再興し、開山には建長寺開山大覚禅師の5世法務孫の位地にあった密室守厳禅師を呼び寄せました。その後、禅興寺は衰亡しました。康暦2年(1380)、関東官領・上杉憲方は関東公方・足利氏満から禅興寺中興を命じられました。
 憲方は伽藍を拡大し、寺域を広げ、塔頭も建てました。足利義満の時代、この禅興寺は関東十刹の一位となり、明月庵は明月院と改められ、支院の首位となりました。しかし禅興寺は、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈により明月院を残して廃寺となってしまったのです。
 今の明月院はあじさい寺として有名になり、長谷寺と並び鎌倉を代表するあじさいの名所になっています。約2500株の姫あじさいは、淡い青色の花をつけ明月院ブルーと呼ばれています。明月院境内は国の史跡に指定されています。

明月院境内(国史跡)
 明月院の境内には、北条時頼廟、北条時頼墓とされる宝篋印塔、上杉憲方の墓とされる鎌倉最大の「明月院やぐら」、今なお使用できる鎌倉十井の「瓶の井」などが残されています。昭和59年(1984)に「明月院境内」として国の史跡に指定されています。
明月院境内

明月院本堂
 明月院の本堂には本尊の聖観世音菩薩が祀られています。堂内の円窓は「悟りの窓」と呼ばれ、悟りや真理、大宇宙などを円形で象徴的に表現しています。手前に枯山水庭園、奥には後庭園と2つの庭園を持っています。
明月院本堂

明月院やぐら
 開山堂の近くに「明月院やぐら」と呼ばれる鎌倉最大規模のやぐらがあります。やぐらとは鎌倉時代特有の洞窟墳墓です。間口7m、奥行き約6m、高さ約3mで、明月院を中興した上杉憲方の墓だと考えられています。中には宝篋印塔が安置され、壁面には釈迦如来や多宝如来、十六羅漢が浮き彫りにされています。
明月院やぐら

明月院開山堂
 明月院の開山堂は宗猷堂(そうゆうどう)とも呼ばれています。山内上杉家の祖、関東管領・上杉憲方は密室守厳禅師を開山として、明月院を中興しました。堂内には開山した密室守厳の木像を安置しています。
明月院開山堂

瓶の井
 開山堂の近くに「瓶の井(つるべのい)」という名の井戸があります。内部に水瓶のようなふくらみがあることから名付けられたそうです。今なお使える鎌倉十井の一つです。鎌倉十井とは、鎌倉の井戸の中で特に良質の水が湧いたと伝えられる十の井戸を指します。
瓶の井

花想い地蔵
 参道わきに「花想い地蔵」が置かれています。膝の上の水盤にはあじさいの花が生けられています。「人は誰しも、はかない花の思い出の中に生きています。大切な人との別れ、いとおしい物との別れ、そんな時ふと目に止まった花がどんなにか、心を慰めてくれたことでしょうか」と書かれています。
花想い地蔵


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