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神奈川の旅と歴史
神奈川の旅      横浜市金沢区

称名寺(金沢文庫)
しょうみょうじ(かなざわぶんこ)
神奈川県横浜市金沢区金沢町212−1
Tel 045-701-9573
(国史跡)


 金沢山(きんたくさん)称名寺は真言律宗の別格本山として西大寺末の律院です。北条氏の一族である金沢北条氏の祖、北条実時が開基しました。正嘉2年(1258)、実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされています。
 文永4年(1267)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招聘して真言律宗の寺となりました。金沢北条氏一族の菩提寺として、鎌倉時代を通じて発展しました。実時の子、2代顕時の時には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立されました。
 顕時の子、3代貞顕は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。

 しかし、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、寺運も衰退しました。江戸時代に入ると復興され、現存する堂宇が建てられました。称名寺と縁の深い金沢文庫は、実時が病で没する直前の建治元年(1275)頃、居館内に文庫を設けたのが始まりです。
 文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていました。日本最古の武家文庫は書籍の蒐集を目的とするもので、今のような閲覧を目的とする図書館のようなものではなかったようです。
 金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理が委ねられました。しかし寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸していきました。戦国時代は上杉謙信軍の略奪にあい、江戸時代には徳川家康が江戸城内に紅葉山文庫を設けたため多くの蔵書を持ち出されてしまい荒廃したのでした。

 伊藤博文は、明治30年(1897)に称名寺の参道東側に金沢文庫を再興しましたが、関東大震災で被災してしまいました。文庫は昭和5年(1930)、神奈川県立金沢文庫(かなざわぶんこ)として復興しました。
 称名寺には貴重な文化財がたくさん残されています。北条実時像、北条顕時像、絹本著色北条実時像、北条顕時像、金沢貞顕像、金沢貞将像、文選集注などが国宝です。多くの仏像、経文、絵巻、来迎図、絵図、漆、和歌集、地図が国の重要文化財に指定されています。
 金沢は鎌倉の外港として栄えた六津湊(むつらみなと)が開かれ貿易港として賑わった所です。北条泰時3代執権は重要視して、弟の北条実泰を地頭にして直轄地としました。実泰以後、実時、顕時、貞顕、貞将と続きました。これが金沢北条氏です。

称名寺境内(国史跡)
 称名寺境内は大正11年(1922)に、元亨3年(1323)「称名寺絵図並結界記」 (称名寺蔵、国重文)による清浄域の範囲で、国の史跡に指定されました。昭和47年(1972)に境内地を拡大し、周囲の山域及び総門から仁王門に至る塔頭地域を追加指定しています。
称名寺境内

称名寺赤門
 称名寺の惣門は赤門と呼ばれています。切妻造り、本瓦葺きの四脚門です。昭和7年(1932)、金沢文庫駅への道路開設にともない7、8m後退して現位置に建てられたものです。赤門は徳川幕府から御朱印をもらった証として門を赤く塗ったことから付けられたようです。明和8年(1771)に再建されています。
称名寺赤門

称名寺光明院表門
 境内入口に江戸時代後期に称名寺の五つの塔頭の一位を占めていた光明院の表門があります。切妻造り、茅葺きの四脚門で、袖塀が付いています。寛文5年(1665)に建てられていて、横浜市の有形文化財に指定されています。
光明院表門
 この表門は、小規模な四脚門ですが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠となっています。光明院は大威徳明王像を所蔵しています。平成19年(2007)に鎌倉時代の仏師・運慶の作と確認され、翌平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されました。
光明院表門

称名寺仁王門
 称名寺の参道をまっすぐに行くと仁王門があります。間口5間半(10m)、奥行3間半(6.3m)、入母屋造り、銅板葺きの三間一戸の楼門です。屋根の中心には軒唐破風が付いています。文政元年(1818)に再建された建物です。
称名寺仁王門
 左右に安置された仁王門の金剛力士像は、元亨2年(1322)の鎌倉時代に造られました。関東最大の仁王像で、神奈川県の重要文化財に指定されています。大仏師、院興の作といわれています。
称名寺仁王門

称名寺庭園
 称名寺庭園は発掘調査のあと、鎌倉時代の古文書に基づいて昭和62年(1987)に復元された浄土式池泉庭園です。元亨3年(1323)に描かれた国の重要文化財の「称名寺絵図並結界記」によって、伽藍や庭園の配置などが描かれていたのを再現したのです。
称名寺庭園
 配置は平安時代中期以降盛んになった浄土曼荼羅の構図に基づき造られた梵字アをかたどっています。金堂前の阿字ヶ池を中心に池の中心に中島、右手は朱塗りの反橋、本堂側には朱塗りの平橋が復元されています。この橋はかながわの橋100選に選ばれています。
称名寺庭園

称名寺金堂
 諸堂宇の中心にある現在の金堂は元和元年(1681)に再建された堂宇です。間口5間、奥行5間、単層入母屋造り、本瓦葺きです。再建当初は茅葺きだったようです。禅宗様の意匠となっています。
称名寺金堂
 中に安置されている本尊の弥勒菩薩立像は、鎌倉時代の建治2年(1276)の銘があり、国の重要文化財に指定されています。それに付随する像内納入品(版本法華経8巻、紙本三劫三千仏摺仏3包、紙本墨書願文、消息等一括、版本種子曼荼羅、真言等1巻、木製舎利塔残闕、竹筆等6点)も附指定となっています。
称名寺金堂

称名寺釈迦堂
 金堂に隣接する称名寺の釈迦堂は方三間の宝形造りで、茅葺きです。廻縁が付いています。文久2年(1862)に建てられています。釈迦堂に安置されている木造釈迦如来立像は鎌倉時代の徳治3年(1308)に彫られていて、大正14年(1925)に国の重要文化財に指定されています。
称名寺釈迦堂

称名寺鐘楼
 釈迦堂の前にある鐘楼には金沢八景の一つ「称名の晩鐘」として知られた梵鐘が吊されています。金沢北条氏の初代・実時が文永6年(1269)に父・実泰の7回忌供養として造らせました。その後、破損したため、息子の顕時が正安3年(1301)に改鋳したもので、銅鐘として国の重要文化財に指定されています。
称名寺鐘楼

称名寺新宮古址
 新宮は称名寺の鎮守です。銅板葺きの、三間社造りの社殿です。寛政2年(1790)に再建されています。
称名寺新宮古址

称名寺中世隧道跡
 境内には中世の隧道(すいどう)が残されています。称名寺と金沢文庫の間に立ち塞がる岩盤をくり抜いたトンネル跡です。鎌倉時代に描かれた「称名寺絵図」にもその存在が記されているそうです。この隧道は、国史跡の称名寺と金沢文庫をつなぐ重要な遺跡です。
中世隧道跡

青葉楓
 本堂前に「青葉楓(かえで)」と呼ばれる木があります。室町時代の佐阿弥の作の謡曲「六浦(むつら)」は梅、松、藤などを人格化して草木の精として扱ったところから有名になりました。称名寺を訪れた冷泉為相が全山の紅葉に先駆け、本堂前のこの楓だけが紅葉することに感動して「いかにしてこの一本に時雨けん、山に先だつ庭のもみじ葉」と詠んだそうです。
青葉楓
 楓は非常に光栄に思い「功なり名を遂げて身しりぞくはこれ天の道なり」との古句にならい、その後は紅葉せず常緑樹(ときわぎ)になったということです。
青葉楓
 紅葉することをやめため楓は「青葉楓」と呼ばれるようになったそうです。草木にはみな心があることを語っています。この楓は近世の地誌類にも金沢の名木としてしばしば取り上げられましたが、その後、枯れてしまいました。この木は新植されたものです。
青葉楓

称名寺百観音
 金沢山を登っていくと称名寺の百観音があります。かつて三重塔付近に西国1番を置き、顕時の墓前を通り、金沢山に登り、稲荷山、日向山を経て金堂迄の18町にわたって置かれたものだそうです。
百観音

称名寺八角堂
 八角堂は金沢山の市民の森山頂にあります。北条660年忌を記念して、博文館社主であり金沢文庫の再興に貢献した大橋新太郎氏が百観音とともに寄進したものだそうです。八角堂には一時期、海中出現観音が祀られてあったそうです。その後心ない者に壊され現在に至っているということです。
八角堂
 八角堂付近の平らなところは八角堂広場と呼ばれています。ここからの展望は素晴らしく、横浜中心部を鳥瞰できます。八角堂は小説の中にも現われます。内田康夫の「横浜殺人事件」です。岡松物産社員が金沢八景の一つ、金沢山山頂の八角堂の中で死んでいるのが発見されたというストーリーです。
八角堂

北条実時廟
 北条実時廟は市民の森の稲荷山休息所付近にあります。正面には金沢北条一門の墓があります。墓地中央の宝篋印塔が、実時の墓と伝えられています。左手に3基、右手に2基の一門の墓があります。
北条実時の墓
 実時は、鎌倉幕府の第2代執権であった義時の孫で引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永3年(1275)には越訴奉行をつとめています。鶴岡八幡宮の流鏑馬の時でも本を読んでいたという読書家だったようです。
北条実時の墓

北条実時像
 知識人であった北条実時は京都や遠く中国から沢山の書物を取り寄せて学問に励んだようです。これらの大量の書物を所蔵していたのが称名寺におかれた金沢文庫だったのです。その時期は実時が病で没する直前の建治元年(1275)頃といわれています。
北条実時

楷樹
 昭和14年(1939)に植えられた楷樹(かいじゅ)という木があります。正式には「トネリバハゼノキ・ランシンボク」という名ですが、一般には楷の木とよばれています。昔、中国で孔子の墓の傍に植えられていたので孔子木と呼ばれ、日本でも最初は、学問と関係のある所だけに植えられたそうです。孔子信仰と関係のある湯島聖堂、足利学校などに植樹されたそうです。
楷樹


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