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栃木の旅と歴史
栃木の旅       芳賀郡益子町

西明寺
さいみょうじ
栃木県芳賀郡(はがぐん)益子町益子4469
Tel 0285-72-2957


 独古山普門院西明寺は真言宗豊山派のお寺で、天平9年(737)行基によって創建されたそうです。紀有麻呂が諸堂を建立し、天平11年(739)落慶供養が行われたと伝えられています。坂東33カ所第20番の札所で本尊は十一面観世音菩薩です。
 延暦元年(782)には一山12坊を数えて隆盛を極めました。康平年間(1058-1065)に益子氏初代・益子正隆が高舘城(西明寺城)を築き、西明寺は益子氏によって庇護されます。大治2年(1127)に兵火により堂塔12坊すべて灰塵に帰しましたが、治承2年(1178)に再建されました。その後、益子氏は宇都宮城城主・宇都宮氏に従う事になり、宇都宮氏からも庇護されました。承元3年(1209)に宇都宮景房によって本堂が修築されています。
 建長年間(1249-1256)には七堂伽藍が再興されて壮麗を極めました。しかし南北朝時代、南朝についた益子・宇都宮氏は北朝方に侵攻され、正平6年(1351)、益子城は落城し、西明寺もその兵火により灰燼に帰しました。応永元年(1394)に益子勝直が再興を果たし、明応3年(1494)に楼門が再建され、天文6年(1537)には益子家宗の寄進により三重塔が造営されています。
 益子氏はその後、宇都宮家・笠間氏との争いに敗れ、常陸国の佐竹氏の家臣となっています。西明寺は江戸時代に入ると徳川幕府から庇護されました。元禄14年(1701)平野亦市により本堂の再建が行われ、正徳4年(1714)には閻魔堂が建立され、享保7年(1722)には鐘楼が再建されて現在の姿になりました。

西明寺三重塔(国重文)
 西明寺の三重塔は室町時代後期の天文6年(1537)に城主・益子家宗により建立されました。高さ18.2mの三重塔は、3間3層で、和様、唐様、折衷様の3様式で造られています。屋根は目板打の板屋根銅板葺きという珍しい葺きかたです。
西明寺三重塔
 塔は高欄のない縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間のみ蟇股があります。三重塔は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
西明寺三重塔

西明寺楼門(国重文)
 西明寺の楼門は明応3年(1494)城主・益子勝直により建立されました。純唐様式で3間1戸の重層入母屋造り、茅葺きの堂々たる門です。左右の側室は前後に区切られ、前室に金剛像と仁王像を安置しています。楼門は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
西明寺楼門

西明寺本堂(厨子国重文)
 西明寺の本堂は益子勝直によって開扉供養が行われ、元禄14年(1701)大改修で現在の姿になりました。本堂は栃木県の有形文化財に指定されています。本堂内部の厨子は全唐様式の一間厨子宝形造り板葺きで室町初期のものです。厨子は昭和37年(1962)に国の重要文化財に指定されています。
西明寺本堂

西明寺閻魔堂
 西明寺閻魔堂は正徳4年(1714)に建てられました。寄棟造り、茅葺きです。堂内には県指定文化財の閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆、地蔵尊の五体の仏像が並んでいます。
西明寺閻魔堂

西明寺鐘楼
 西明寺の鐘楼は享保7年(1722)に再建された建物です。3間4方、重層宝形造りで茅葺きです。一層は角柱、二層は円柱で、組物は三斗出組で、古い型の鐘楼です。梵鐘とともに栃木県の有形文化財に指定されています。
西明寺鐘楼


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