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栃木の旅と歴史
栃木の旅       日光市

日光東照宮
にっこうとうしょうぐう
栃木県日光市山内2301
Tel 0288-54-0560
(国史跡)


 元和2年(1616)江戸幕府初代将軍徳川家康が駿河城(静岡県)に於いて死去しました。家康は生前、病床で「我亡からん後は、先づ駿河の久能山に葬り、一周忌を経て後大織冠の例を追うて日光山に移せ、神霊ここに留って永く国家を擁護し、子孫を守るべし」と遺言を残していました。
 遺言通り一旦、家康の遺体は久能山に埋葬されました。翌年元和3年(1617),、家康の息子で2代将軍徳川秀忠は、日光に廟を造営し、改葬しました。朝廷から東照大権現の称号と正一位を与えられ東照社と称しました。
 日光山5世貫主であった慈眼大法師天海の尽力もあって、正保2年(1645)、後水尾天皇から東照宮という宮号が下され、日光東照宮と改称し、翌年、東照大権現という神号が宣下されました。
 3代将軍徳川家光は家康に対し特別に畏敬の念を抱いていました。日光東照宮への参拝は19回にも達し、寛永13年(1636)には莫大な費用と労力をかけ今までの社殿をより大規模なものに再建造営したのです。今日の絢爛豪華な社殿群を造り上げたのでした。
 日光東照宮の総奉行は秋元泰朝、棟梁は甲良宗広一派が手掛け、将軍家の威光をかけた壮大華麗な社殿建築を造り出しました。例祭には朝廷から奉幣使が派遣されたり、朝鮮通信使が参拝に訪れたりして幕府、将軍家の権威を高めました。
 東照宮では天海僧上の主張もあり山王一実神道による神仏混合を採用し、薬師如来と本地仏を祀り他の日光山内の社寺と渾然一体となっていました。
 2代将軍秀忠が建立した拝殿・唐門・多宝塔は徳川家発祥の地とされる世良田東照宮へ移築され分霊を遷座しています。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の「二社一寺」に集約され日光東照宮は改めて正式の神社となりました。家光の霊廟大猷院廟などは仏式の造りだったため輪王寺に帰属させられました。
 東照宮では年中行事として春秋2回、東照宮例大祭が行われます。千人武者行列といい、馬に乗った神官や神輿、鎧兜に身を固めた武者たちの行列が参道を練り歩き、流鏑馬神事も奉納されます。
 日光東照宮は現在でも多くの社殿や寺宝を所持し、特に本殿、石の間、拝殿、唐門、陽明門、東西廻廊、東西透塀は国宝に指定されています。石鳥居、五重塔、表門、三神庫、神厩舎、御水屋、輪蔵、鐘楼、鼓楼、本地堂、神楽殿、祈祷殿、神輿舎、坂下門などは国指定重要文化財です。
 奥社では銅鳥居、銅神庫、拝殿、銅宝塔、鋳抜門、石玉垣、石柵が国指定重要文化財です。輪王寺本坊、大猷院廟、二荒山神社などと共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。


東照宮石鳥居(国重文)
 一ノ鳥居は東照宮入口に建っています。高さ9m、柱の太さ3.6m、柱の間隔が6.8mの日本最大級の石造りの明神鳥居です。京都の八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮とともに日本三大鳥居の一つに数えられています。柱に奉寄進元和四年戊午四月十七日の刻銘があります。
石鳥居
 石鳥居は江戸時代前期の元和4年(1618)に黒田長政が奉納したもので、石材は九州から切り出され運ばれたそうです。後水尾天皇の筆による東照大権現の勅額が掲げられています。石鳥居は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
石鳥居

東照宮五重塔(国重文)
 五重塔は東照宮入口に立つ一ノ鳥居をくぐったすぐ左手に建っています。高さ約36mの朱塗りの塔です。慶安3年(1650)に若狭小浜藩主・酒井忠勝が奉納しました。吊られた心柱により高層建築の振動を調整する工夫がなされています。その後、文化12年(1815)に落雷により焼失しました。江戸時代後期の文政元年(1818)に再び酒井家の手によって再建され現在の姿となっています。
五重塔
 各屋根の二重垂木は4層までがまっすぐな和様、5層目のみ扇形に広がる唐様になっています。五重塔は銅瓦葺きで、3間4面の五重塔婆で朱色を基調とし金物を金、組物、彫刻を極彩色で彩る豪勢な造りです。初層に施された十二支の彫刻は見事です。五重塔は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
五重塔

東照宮表門(国重文)
おもてもん
 表門は総門とも呼ばれ東照宮五重塔広場の正面、巨石の石垣上に建立されています。総朱塗りで、切妻造り、銅瓦葺きの3間1戸の八脚門です。東西に延長120間に及ぶ簓子塀(ささらこべい)が付いています。江戸前期の寛永13年(1636)の寛永の大造替の際に奈良東大寺の転害門の三棟造(みつむねづくり)を模して建造されました。
表門
 背面には金色の狛犬が飾られ、柱の上部には獏、象、虎、麒麟、獅子をはじめ、66の彫刻が施されています。驚くほどの極彩色に細密な彫刻、金箔が惜しみなく使われていて、江戸初期の技術の粋が凝縮されています。
表門
 山王一実神道(さんのういちじつしんとう)の宗教理念により、神社建築と寺院建築が混在する独特の様式です。神仏混合の名残りで門の両脇に、「阿」(あ)、「吽」(うん)の一対の仁王像を安置しています。そのため仁王門とも呼ばれます。
表門
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仁王像が大猷院に移され表門となりました。明治30年(1897)に再度戻され、現在の姿になりました。日光東照宮表門は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
表門

東照宮三神庫(3神庫ともに国重文)
 三神庫は東照宮大造替の時に建てられました。表門をくぐり右側から正面に鉤(かぎ)の手状に並んでいます。3棟とも東大寺の正倉院と同じ校倉(あぜくら)造り、高床で朱塗りの建物です。三神庫は手前から下神庫・中神庫・上神庫とよばれ、この三神庫には千人武者行列に使う1200人分の装束や舞楽用の装束などが収納されています。下神庫・中神庫・上神庫とも国の重要文化財に指定されています。
三神庫

東照宮下神庫(国重文)
 東照宮の下神庫は江戸前期の元和から万治年間(1615-1660)に建てられたと思われます。間口7間、奥行4間、切妻造りの銅瓦葺きの建物です。千人武者行列の装束類を収めた倉庫になっています。下神庫は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
下神庫

東照宮中神庫(国重文)
 東照宮の中神庫も下神庫と同時期の江戸前期の元和から万治年間(1615-1660)に建てられたと思われます。間口9間、奥行3間、単層、入母屋造り、銅瓦葺きで、7間の向拝が付いています。千人武者行列の装束類を収めた倉庫になっています。中神庫は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
中神庫

東照宮上神庫(国重文)
 東照宮の上神庫も中神庫、下神庫と同時期の江戸前期の元和から万治年間(1615-1660)に建てられたと思われます。間口7間、奥行4間、単層、切妻造り、銅瓦葺きで、1間の向拝を付けています。重要な神宝類を収めた倉庫となっています。
上神庫
 上神庫の屋根妻面には狩野探幽が下絵した「想像の象」といわれる黒と白の想像上の象の彫刻が飾られていて、東照宮三彫刻「三猿」と「眠り猫」とともに日光三彫刻の1つとされています。上神庫は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
上神庫

東照宮神厩舎(国重文)
しんきゅうしゃ
 東照宮の神厩舎は神馬をつないでおく厩舎です。寛永13年(1636)に建てられたもので、間口3間、奥行5間、単層、切妻造り、銅瓦葺き、妻入りの建物です。神厩舎は境内唯一の素木造(しらきづくり)の建物です。
神厩舎
 当初は初代将軍・徳川家康が関ヶ原の合戦の折乗馬していた馬が神馬とされていたそうです。神馬は雄の白馬が条件で、現在2頭が飼育されているそうです。百物揃千人行列の時には神馬も出馬するそうです。
神厩舎
 長押(なげし)上には、猿は病気から馬を守るという信仰から8面の猿の彫刻があり、誕生から大人に成長する猿の姿を描きながら、人の生き方を表わしています。その中でも参道側左から2番目にある子供時代を表した三猿の彫刻が有名です。
神厩舎
 国の重要文化財の見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の彫刻は悪いことは、見ない・言わない・聞かないという意味が込められているそうです。東照宮の根本理念を現しているともいわれています。神厩舎は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
神厩舎


東照宮御水舎(国重文)
おみずや
 東照宮の御水屋は神厩舎の先にある湧き水がある建物です。間口1間、奥行1間、単層、唐破風造り、妻入、銅瓦葺きで、寛永13年(1636)に建てられています。柱は4隅に3本づつ計12本あり全て御影石で造られ、水にちなんで波や竜の彫刻に極彩色が塗られています。
御水舎
 手水鉢は元和4年(1618)に鍋島藩主が初代将軍徳川家康3回忌に奉納したものです。滝尾神社付近から水を引き神庫裏の石垣から落ちる水の圧力で水が噴き上がるようになっています。手水舎は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
御水舎

東照宮輪蔵(国重文)
りんぞう
 東照宮の輪蔵は江戸時代前期の寛永13年(1636)に建てられた経蔵です。正面入口1間(2m)、間口3間(6m)、奥行3間(6m)、宝形造りで銅瓦葺き、単層、裳階付きです。経蔵の内部には、八角形をした回転式の輪蔵が設置されているので(内部は非公開)、東照宮では輪蔵と呼ばれています。
輪蔵
 朱色と金が基調で組物と彫刻が極彩色で彩られ、内部には八角形の回転式の書架があり、一切経1456部、6325巻が納められています。日光東照宮輪蔵は 東照宮経蔵として明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
輪蔵

東照宮鐘楼(国重文)
しょうろう
 東照宮の鐘楼は陽明門の石段の下、門に向かって右側にあります。間口3間、奥行2間、入母屋造り、銅瓦葺きで、袴腰が付けられています。寛永の大造営の際の寛永13年(1636)に建てられています。朱色や金色を主体としたきらびやかな塔のような建 物で、明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
鐘楼

東照宮鼓楼(国重文)
ころう
  東照宮の鼓楼は陽明門の前に鐘楼と東西に対称的に配置されています。陽明門に向かって左側です。神仏習合時代の名残で、鼓(太鼓)を収蔵しています。間口3間、奥行2間、入母屋造り、銅瓦葺きで、袴腰が付けられています。江戸時代前期の寛永13年(1636)に建てられています。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
鼓楼

東照宮本地堂(国重文)
 東照宮の本地堂は東照宮最大の建物で高さは15mあります。間口7間、奥行5間、単層、入母屋造り、銅瓦葺きで、3間の向拝が付けられた極彩色の華麗な建物です。寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建てられています。
本地堂
 東照宮の祭神・徳川家康は薬師如来の化身であると考えられたことから、内部には薬師如来を安置し、薬師堂とも呼ばれます。天井には龍が描かれ、堂内の反響でり天井の龍が鳴いているように聞こえるので「鳴き龍」として知られます。本地堂は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
本地堂

東照宮陽明門(国宝)
ようめいもん


 陽明門は日光東照宮の象徴的な建物です。寛永12年(1635)に建てられものです。一日中眺めていても飽きないことから「日暮門(ひぐらしのもん)」ともいわれています。間口7m、高さ11m、奥行き4mの入母屋造りの12脚門です。昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
陽明門
 極彩色で装飾されている2層の楼門は全ての面に江戸初期の装飾技術を集結させた彫刻を施しています。3間1戸、8脚楼門、入母屋造り、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築で、中央が通路になっています。
陽明門
 京都御所にある12の門のうち、東の正門が陽明門と呼ばれていました。この名を賜って陽明門と名付けられたそうです。明治維新まで庶民がこの門を通ることは許されていませんでした。武士は刀を預け、勅使でさえも装束を改めたそうです。
陽明門
 正面唐破風下には元和3年(1617)に後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の額が掲げられています。桂離宮の松琴亭に掲げられた額「松琴」の文字も後陽成天皇の筆で徳川幕府と良い関係にあったと思われます。
陽明門
 東照宮一の豪華さを誇る陽明門には当時の技術の最高技術がつぎ込まれ彫刻の数は508体にのぼり、軒下には金と極彩色に彩られた麒麟、その下には白色の竜、さらに下が子供達の透かし彫りが施されています。
陽明門
 蹄を持つ龍「龍馬」をはじめ、唐獅子、鯉に乗った仙人、唐様の人物など精緻で極彩色の彫り物が門を覆い尽くしています。門の下にいる逆立ちの一対の獅子は石柵を支える支柱の役割を果たしています。柱と同じ一本の石から彫り抜かれています。
陽明門
 裏側の左手2番目の柱は「魔除けの逆柱」と呼ばれグリ紋の向きが逆です。完成した瞬間から崩壊が始まるという古事からわざと未完成の部分を残しているそうです。ギリシア神話に登場する女の怪物メドゥーサを恐れて逆さまに彫るのと似ていると思いました。
陽明門

東照宮東西廻廊(国宝)
 東照宮の廻廊は、陽明門から左右に延びる朱塗りの華麗な廊下です。途中から折れ曲がって、東西の端は、御本社後ろの石垣の手前で切れ、コの字形に御本社を囲んでいます。東廻廊は折曲り延長54間、梁間1間で、西廻廊は折曲り延長36間、梁間1間、ともに各一重、入母屋造り、銅瓦葺きで、総延長は220mもあります。
廻廊
 寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建立されました。当初は北側にもあり、本社を一周りしていました。ところが、正保3年(1646年)の地震で、御本殿裏の石垣が崩れかかり、翌年、従来の石垣の前面に新たな石垣を築くため、北側の回廊が撤去されたそうです。東廻廊、西廻廊ともに昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
廻廊

東照宮神楽殿(国重文)
かぐらでん
 東照宮の神楽殿は神楽という踊りを奉奏する所です。間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、銅瓦葺きの建物で、内部は3室に分かれていています。江戸時代前期の元和から万治年間(1615-1660)に建てられたと思われます。神楽殿は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
神楽殿

東照宮祈祷殿(国重文)
  東照宮の祈祷殿は上社務所ともいわれ、結婚式や初宮詣、七五三詣、家内安全、商売繁盛などの祈祷が行われます。間口3間、奥行3間、背面に1間通庇が付き、単層、入母屋造り、銅瓦葺きで、1間の向拝があります。寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建てられています。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
祈祷殿

東照宮神輿舎(国重文)
しんよしゃ
 東照宮の神輿舎は陽明門をくぐって入った左手、西回廊に囲まれた内部に建てられています。間口3間、奥行3間、単層、入母屋造り、妻入、銅瓦葺きで、正面に軒唐破風が付けられています。寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建てられています。
神輿舎
 春秋の渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、家康、秀吉、頼朝の3基の神輿(しんよ=みこし)が収蔵されています。どれも110kgの重さがあるそうです。天井には狩野派の絵師が描いた天女の絵があります。この天女は、「日本一美人の天女」といわれています。神輿舎は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
神輿舎

東照宮唐門(国宝)
 東照宮で最も重要な本社の正門にあたるのが唐門です。本社の背後にある背面唐門は銅瓦葺きの一間一戸平唐門、拝殿前の正面唐門は銅瓦葺きで、間口1間(3m)、奥行1間(2m)の小さな門です。四方に葺かれた四方唐破風造りの屋根は力強い感じです。白と金を基調としており気品のある清楚な印象も受けます。
唐門
 門柱には唐木の寄せ木細工で造られた昇龍と降龍が飾られています。屋根の前後は恙(つつが)、左右には鰭(ひれ)切りの龍を配置しています。欄間には竹林の七賢人など中国の故事にちなんだ彫刻が見事に彫られています。唐門は寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建てられています。
唐門
 唐門は江戸時代には御目見得(将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名だけが使えた門だったそうです。現在でもこの門を潜るのは、正月や大祭など中祭以上の祭典の時か、国・公賓相当の方の参拝の時だけだそうです。唐門は正面唐門、背面唐門ともに昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
唐門

東照宮御本社拝殿(国宝)
 唐門の奥には拝殿、石の間、本殿が一体化した権現造りの御本社があります。東照宮の中心を成していて、寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建立されています。拝殿は間口9間、奥行4間、入母屋造り、正面に千鳥破風、軒唐破風があります。銅瓦葺きで、正面に3間の向拝が付いています。
御本社拝殿
 拝殿には「将軍着座の間」「法親王着座の間」があり天井は格天井で格それぞれ異なった竜が狩野一派によって描かれ百間百種の竜と呼ばれています。欄干には土佐派の絵師、土佐光起筆の三十六歌仙の額が揚げられています。昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
御本社拝殿

東照宮御本社石ノ間・本殿(国宝)
 本殿は間口5間、奥行5間、入母屋造りの銅瓦葺きで背面に1間の向拝があります。石之間は間口3間、奥行1間、両下造り、銅瓦葺きの建物です。拝殿と本殿を石ノ間がつないでいて、一般の参拝は本殿の手前の石ノ間までとなっています。
御本社石ノ間・本殿
 拝殿、石の間、本殿が一体化した権現造りで東照宮の中心です。寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に徳川家光によって全面的に造り替えられたもので、寛永13年(1636)に完成しています。本殿、石の間は、拝殿、唐門とともに昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
御本社石ノ間・本殿
 本殿は神仏混合の名残が見られ、内陣や内々陣などが設えられ東照大権現が安置しています。
御本社本殿唐門・拝殿・石ノ間・本殿

東照宮東西透塀(国宝)
すきべい
 東照宮の透塀は唐門から左右に延びて御本社を囲んでいます。瑞垣(みずがき)とも呼ばれています。東透塀は折曲り延長43間、銅瓦葺きです。北側(本社の背後)の中央には北唐門(背面唐門)、また、西側には、通称西唐門と呼ばれる潜り門があります。両下造りで、石垣の上に石造の土台を据え、柱は角柱で、黒漆塗りです。。
透塀
 西透塀は折曲り延長44間、銅瓦葺きです。東透塀、西透塀ともに寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建立され、昭和26年(1951)に国宝に指定されています。長押の表面には亀甲花菱紋を、金箔地に密陀彩色で描き、胴羽目には花狭間格子を設け、格子は金箔地、透し彫の 花弁の表面は緑青、内側を朱塗りとしています。
透塀

東照宮坂下門(国重文)
 東照宮の坂下門は拝殿前、祈祷殿横から徳川家康(東照大権現)が眠る奥社への入口の門として江戸前期の元和4年(1618)に建てられています。銅瓦葺きの、 一間一戸の平唐門です。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
坂下門
 普段は閉められ将軍参詣の折しか開く事がなかった事から「開かずの門」とも呼ばれていました。坂下門を出て奥宮へは207段の石段が続きます。石段は一段毎に一枚石を用い、石柵は一本石をくり貫いて造られています。
坂下門

東照宮奥社鳥居(国重文)
 東照宮の奥社鳥居は坂下門から207段の石段を登ったところにあります。この鳥居は銅製明神鳥居で5代将軍徳川綱吉が江戸中期の天和3年(1683)に奉納したものです。扁額は後水尾天皇の勅筆です。昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
奥社鳥居

東照宮奥社銅神庫(国重文)
 東照宮の奥社にある銅神庫(どうしんこ)は銅鳥居の横にあります。間口3間、奥行2間、単層、寄棟造り、銅瓦葺きの建物で、江戸時代前期の承応3年(1654)に建てられています。昔は宝蔵と呼ばれ、家康の甲冑や刀剣、位記(天皇から授与された官位を証する書状)などが納められていました。昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
奥社銅神庫

東照宮奥社拝殿(国重文)
 東照宮の奥社の拝殿は間口5間、奥行3間、単層、入母屋造り、銅瓦葺き、屋根の前後に軒唐破風を付けています。寛永の大造替の時の寛永13年(1636)に建てられています。黒漆が基調で細部には金の装飾が施されています。内部は金色柱や極彩色で彩られています。明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
奥社拝殿

東照宮奥社宝塔(国重文)
 東照宮の奥社の宝塔は初代将軍徳川家康の墳墓の上に建てられた銅の宝塔で奥宮になります。当初は木造でさらに石造に改められました。その後、天和3年(1683)に新たに銅製に鋳造されています。
奥社宝塔
 宝塔は石造りの玉垣の内部に八角九段の基盤の上に築かれています。高さは5mあり、前面には香炉、燭台、花瓶、三具足が備え付けられています。宝塔の製作者は鋳抜門と同じく幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。日光東照宮奥社宝塔は明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
奥社宝塔

東照宮奥社鋳抜門(国重文)
いぬきもん
 東照宮奥社の鋳抜門は銅製一間一戸の平唐門です。宝塔(奥宮)の前に慶安3年(1650)に建てられました。門は全て青銅鋳物製で扉を除いて、柱や梁などをひとつの鋳型で造ったことから鋳抜門と呼ばれています。
奥社鋳抜門
 鋳抜門は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫が造りました。重厚な造りですが門扉の細かな意匠には金が使用されるなど格式と荘厳さが感じられます。鋳抜門は東照宮奥社唐門として明治41年(1908)に国の重要文化財に指定されています。
奥社鋳抜門

東照宮奥社石玉垣(国重文)
 東照宮奥社の石玉垣(いしたまがき)は神域の周囲にめぐらされた石の垣です。瑞垣(みずがき)ともいわれます。江戸時代前期の元和から万治年間(1615-1660)に建てられたと思われます。周長58.5mに及びます。昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
奥社石玉垣

東照宮奥社石柵(国重文)
 東照宮奥社の石柵は宝塔、拝殿周囲、前檀三方に造られています。江戸時代前期の元和から万治年間(1615-1660)に建てられたと思われます。昭和19年(1944)に国の重要文化財に指定されています。
奥社石柵


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