あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
東京の旅と歴史
東京の旅      千代田区千代田

皇居
こうきょ
東京都千代田区千代田1ー1−1


 現在の皇居は、明治2年(1869)以来用いられています。明治元年(1868)、明治天皇が江戸に行幸し、東の京都として東京と改称したとき、東京城(旧江戸城)が天皇の東幸中の行宮(行在所)と定められました。
 東京城の御座所は明治初期には皇城(こうじょう)と称し、明治21年(1888)に宮城(きゅうじょう)と改称されました。戦後の昭和23年(1948)に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになりました。
 江戸城が築かれたのは長禄元年(1457)のことでした。扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌が築城しました。土塁と簡素な居館がある程度の小さな城だったようです。
皇居正門石橋
 道灌が城代をつとめましたが、文明18年(1486)、道灌は主家の上杉定正により誘殺されます。永正2年(1505)には上杉朝良が入城し、大永4年(1524)に北条氏綱により陥落するまで扇谷上杉氏の本拠となりました。
 その後は北条氏が遠山氏を江戸城城代としていました。遠山景政の弟川村秀重が守っていましたが、豊臣秀吉の大軍に包囲され開城し北条氏は滅亡しました。
二重橋
 天正18年(1590)、徳川家康はそれまで領有していた甲信駿遠三の五ヶ国から北条氏の旧領に移るように秀吉に命じられました。家康は江戸城を居城と定めて入城し、文禄元年(1592)からは拡張工事に着手しました。
 慶長8年(1603)、家康は江戸に幕府を開き、江戸城は天下の府城となりました。その後3代家光の代まで普請を続け、寛永13年(1636)に一応の完成を見ました。
 家光の代には5層の豪華な大天守がありましたが、明暦3年(1657)の振り袖大火でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失、以降明治に至るまで13回の火災を経験しました。
警視庁
 天守閣は基礎石積は44平方m600坪 高さ60mの金色のシャチを頂く壮大なものだったそうです。八代将軍吉宗によって石垣のみが再建され、建物は再建されませんでした。
 徳川幕府の大政奉還、有名な勝海舟と西郷隆盛の談判による江戸城の無血開城などがあり、東京遷都が実現しました。
桜田門


 東京都トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置