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東京の旅と歴史
東京の旅      台東区

寛永寺
かんえいじ
東京都台東区上野桜木1−14−11
Tel 03-3821-4440


 寛永寺は天台宗の別格大本山です。寛永2年(1625)に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、天海大僧正によって建立されました。秀忠の隠居後、寛永2年(1625)、3代将軍家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。
 寛永寺の伽藍は延暦寺の様式のように造営されました。寛永4年(1627)には法華堂、
常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631)には清水観音堂、五重塔などが建立されました。寺の中心となる根本中堂が落慶したのは元禄11年(1698)、5代将軍徳川綱吉の時でした。
 後には第4代将軍・コ川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。貫主は輪王寺宮と尊称され、水戸、尾張、紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもちました。
 江戸時代、現在の上野公園一帯に寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていました。現在の噴水池周辺に、本尊薬師如来を泰安する根本中堂があり、その後方に本坊がありました。しかし、幕末の慶応4年(1868)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となりました。
 五重塔、清水堂、徳川家霊廟は残りましたが、根本中堂などほとんどの堂宇が焼失しました。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873)には旧境内地が公園用地に指定され、寺は廃止状態に追い込まれました。
 復興後、第二次世界大戦でも被害を受けましたが、上野公園内の各所に残されています。旧本坊表門、清水観音堂、五重塔、常憲院霊廟勅額門、厳有院霊廟勅額門などは国の重要文化財に指定されています。

寛永寺旧本坊表門(国重文)
 寛永寺の旧本坊表門は慶応4年(1868)の上野戦争の兵火を唯一免れた建物で、輪王殿の前に残されています。寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館の地に建立されていました。現在はその表門だけが往時の姿を留めています。門には官軍の攻撃による弾痕が数多く残っています。
寛永寺旧本坊表門
 寛永寺全体の表門というべき黒門は荒川区南千住の円通寺に移築され現存しています。寛永寺旧本坊表門も黒門とよばれますが全く別の門です。切妻造り、本瓦葺きの三間薬医門です。江戸時代前期の寛永年間(1624-1643)に建てられています。昭和21年(1946)に国の重要文化財に指定されています。
寛永寺旧本坊表門

寛永寺開山堂
 寛永寺の開山堂は開山した天海僧正(慈眼大師)と2代目慈恵大師を祀っています。天海僧正は天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し、幕府の天台宗制覇を実現する意図があったようです。
寛永寺開山堂

殉死者の墓
 上野公園の中の現竜院墓地内に殉死者の墓があります。慶安4年(1651)4月20日、徳川3代将軍家光が他界しました。後を追って老中堀田正盛、阿部重次らが殉死しました。4代将軍家綱の時代の寛文3年(1663)、幕府は武家諸法度を改正し殉死を禁止しています。
殉死者の墓

寛永寺根本中堂
 寛永寺の根本中堂は本堂になります。東京国立博物館の敷地に建てられましたが、慶応4年(1868)の上野戦争で焼失しました。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地(東京芸術大学音楽学部の裏手)に、明治12年(1879)、川越の喜多院の本地堂を移築したものです。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置しています。
寛永寺根本中堂

清水観音堂(国重文)
 清水観音堂は上野公園内の不忍池を臨む高台に建てられています。寛永8年(1631)に京都の清水寺を模し、摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地へ移転しました。観音堂の舞台造りは浮世絵に競って描かれ、観音堂に通ずる坂は「清水坂」といわれています。
清水観音堂
 清水観音堂は間口5間、奥行4間、単層懸造り(かけづくり)、本瓦葺きで、寛永8年(1631)に建てられています。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺の本堂と造りです。昭和21年(1946)に国の重要文化財に指定されています。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所でもあります。
清水坂

旧寛永寺五重塔(国重文)
 旧寛永寺五重塔は上野動物園の中に建っています。昭和33年(1958)に寛永寺が東京都に寄付したため旧寛永寺五重塔となっています。江戸時代前期の寛永8年(1631)に建立されましたが焼失し、現在の五重塔は下総・古河城主の土井利勝によって寛永16年(1639)に再建されました。
旧寛永寺五重塔
 旧寛永寺五重塔は三間五重塔婆です。屋根は五重部分が銅瓦葺きで、他の下層は本瓦葺きとなっています。明治44年(1911)に国の重要文化財に指定されています。塔の初重に安置されていた釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来の4仏は、東京国立博物館に寄託されています。
旧寛永寺五重塔

常憲院霊廟勅額門(国重文)
 常憲院霊廟勅額門(じょうけんいんれいびょうちょくがくもん)は徳川5代将軍綱吉の霊廟の勅額門で、宝永6年(1709)に建立されています。切妻造り、銅瓦葺きの四脚門で、前後に軒唐破風を付けています。歴代将軍の霊廟の中でも、もっとも整ったものの一つです。この奥に徳川家定と天璋院も葬られています。
常憲院霊廟勅額門
 初代家康は日光東照宮、2代秀忠は台徳院霊廟(増上寺)、3代家光は大猷院霊廟(日光・輪王寺)、4代家綱は厳有院霊廟(寛永寺)、6代家宣は文昭院霊廟(増上寺)、7代家継は有章院霊廟(増上寺)にあります。将軍家霊廟は、8代吉宗以降は倹約のため大規模な霊廟は建築されませんでした。
常憲院霊廟勅額門
 そのため寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された程度でした。常憲院霊廟勅額門は水盤舎とともに、昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。また厳有院霊廟勅額門(げんゆういんれいびょうちょくがくもん)も同時期に国の重要文化財に指定されています。(延宝9年(1681)建立、切妻造り、銅瓦葺きの四脚門で、前後に軒唐破風付)
常憲院霊廟勅額門

寛永寺弁天堂
 寛永寺弁天堂は不忍池の弁天島にあります。不忍池弁天堂とも呼ばれ、寛永寺の境外祠堂です。天海僧正が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、寛永年間(1624-1644)に常陸下館城主・水谷伊勢守が中島を築き堂を建てて弁財天を祀ったものです。
不忍池弁天堂
 弁天堂は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りの八角堂として再建されました。また弁天堂には鳥塚があります。平成16年(2004)4月10日、ここで鳥供養が営まれました。鳥インフルエンザ感染の影響で、京都府などで大量に処分された鶏の霊を慰めたのです。
弁天堂鳥塚
 また弁天堂には包丁塚もあります。
 不忍池弁天堂は琵琶湖竹生島宝厳寺の大弁才天を勧請していますので、水の神様でもあります。境内には様々な水にまつわる動物・ものを奉った塚があります。
弁天堂包丁塚


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