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東京の旅と歴史
東京の旅      台東区

浅草寺
せんそうじ
東京都台東区浅草2−3−1
Tel 03-3842-0181


 金龍山浅草寺は昔から「浅草の観音さま」として親しまれ、老若男女、外国人観光客が入り交じり、お参りの人々で賑わいをみせています。都内では最古の寺院として知られています。坂東33カ所観音霊場の第13礼札所としても知られています。
 雷門からの境内には宝蔵門、本堂のほかに本坊の伝法院(国重文)、五重塔、二天門(国重文)、淡島堂、滝廉太郎作曲の「鳩ポッポ」歌碑等があり、訪れる人々を楽しませてくれます。
  浅草といえば浅草寺。参道の入り口にある雷門は浅草の代名詞であり、下町のシンボル雷門から宝蔵門までの浅草寺への参道は、一般には仲見世通りとして多くの人々に親しまれています。
 約300mの道沿いには江戸時代から商いを続ける老舗を含め、雷おこし、人形焼、江戸玩具、べっこう細工等90余の店が軒を連ねています。
 大化元年(645)、僧勝海が現在地に堂を建て、天慶5年(942)、安房国守・平公雅により再建されました。下総から鎌倉に向かう源頼朝が参詣し寺領を寄進しています。戦国時代には北条氏綱によって再建されています。
 天正18年(1590)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与えました。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631)、同19年(1642)に焼失、3代将軍徳川家光により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建されました。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めました。
 年間約3千万人の人々が訪れる浅草寺は、ほおずき市など風情のあるイベントが多い所です。3月と10月の18日にある金龍の舞、毎年12月17−19日の羽子板市などで賑わいます。

浅草寺二天門(国重文)
 二天門は本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建っています。慶安2年(1649)頃の建立といわれています。元和4年(1618)に浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門」として建てられました。東照宮は寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災により諸堂とともに焼失し、その後江戸城紅葉山に移されました。
浅草寺二天門
 二天門は豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」といわれました。明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった増長天・持国天の二天を奉安して「二天門」と改称しています。
浅草寺二天門
 二天門は切妻造り、本瓦葺きの木造朱塗りの八脚門で、「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美の筆です。第2次世界大戦にも焼け残った二天門は昭和21年(1946)に国の重要文化財に指定されています。
浅草寺二天門
 二天門の前には手水鉢が置かれています。手水鉢とは、参拝の前に身を清めるための水を蓄える鉢です。手水鉢の側面には、安永6年(1777)に浅草寺の消防組織の「臨時連中」によって寄進された事が刻まれています。
二天門手水鉢

浅草寺伝法院(国重文)
 伝法院は浅草寺の院号で住職の居住する本坊の称号に用いられています。客殿、玄関、使者の間、大台所などは安永6年(1777)の建造物です。客殿、玄関、大書院、小書院、新書院、台所などが平成27年(2015)に国の重要文化財に指定されました。
伝法院
 玄関上の瓦には菊のご紋章があります。上野の宮様(公遵法親王)が浅草御殿とされて約3年間にわたり宿坊とされたことから使われています。
伝法院


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