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沖縄の旅と歴史
沖縄の旅        糸満市

ひめゆりの塔
ひめゆりのとう
沖縄県糸満市伊原671ー1
Tel 098-997-2100 ひめゆり平和記念資料館


 沖縄戦の犠牲となり、悲惨な最期を遂げたひめゆり学徒隊をまつった塔があります。犠牲となったひめゆり学徒隊の遺体は、喜屋武半島の山野に放置された遺骨を含め収骨合祀され、「ひめゆりの塔」が建てられました。
 沖縄県立第一高等女学校と沖縄県女子師範学校の校友会誌は、一校女は「乙姫」、師範は「白百合」という名前でした。両校が併置され、校友会誌もひとつになり、両方の名前をとって「姫百合」となったそうです。
 これらの女生徒達で編成された従軍看護隊がひめゆり学徒隊でした。昭和20年(1945)3月23日、ひめゆり学徒222人、教師18人は那覇市の南東5kmにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。
 4月1日アメリカ軍は沖縄本島の中部西海岸に上陸し南下してきました。日本軍の死傷者は激増し、学徒たちは負傷した人たちの看護、水くみ、飯上げ、埋葬など奉仕しました。
 5月25日、撤退命令が出たため南風原の陸軍病院から南下して本部、太田、第一、第二、第三の各外科壕に配属されました。6月18日ひめゆり学徒の解散命令が出されました。
 6月19日、脱出のため、現在ひめゆりの塔がある第三外科壕に集合しましたがガス弾攻撃を受けたのです。ひめゆり学徒隊や兵士など多くが死亡しました。生還者はわずかでした。
 ひめゆりの慰霊碑です。ここにはなくなられた方の名前が刻んであります。ひめゆり部隊の犠牲者194人のうち、解散後の死者が128人というのは悲惨な戦争の結果でした。
  地面にある黒い穴は、最後に陸軍病院第三外科壕があった壕です。この洞窟の中には住民や軍人の遺骨に混じってひめゆりの少女たち数十体の白骨が重なり合っていたそうです。


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