あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
沖縄の旅と歴史
沖縄の旅        那覇市

首里城
しゅりじょう
沖縄県那覇市首里当蔵町3ー1
Tel 098-886-2020


 首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。15世紀にできた内郭(内側城郭)と16世紀にできた外郭(外側城郭)に大きく分けられています。
 首里城の起源ははっきりしませんが、察度王統の時代に首都となったとも、第一尚氏王統の尚巴志(しょう・はし)が中山王武寧(察度の子)を滅ぼし、中山の拠点を浦添城から首里城へ移したともいわれます。
 尚巴志が琉球を統一した頃の応永9年(1427)の建立の碑文に記されているので、それ以前にすでに王宮としての形を整えていたようです。首里城はこれから後450年近く、王国の政治、外交、文化の中心地となりました。
 その後何代にもわたって大改修が行われ、第二尚氏王統2代の尚真王(しょう・しん)の頃には首里城がほぼ完成したといわれています。

 首里城にはいくつもの広場があり、聖地も存在しています。これらは、他のグスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であったようです。今では首里城のみがグスクの特徴を残しています。
 7代尚寧王の代の慶長14年(1609)薩摩の島津氏の侵攻を受け、島津氏に従属することを余儀なくされ、明治5年(1872)には日本領であることを明確にするため、明治政府によって19代尚泰(しょう・たい)琉球王は琉球藩主とされました。明治12年(1879)には琉球藩も廃されて沖縄県となり王政は終結しました。
 首里城は幕末の弘化3年(1846)に改築されて以来、修理されることなく大正時代に至り、腐朽荒廃がひどいため当時の首里市が財政難から取り壊しを決定しました。
 大正12年(1923)、伊藤忠太博士の尽力により解体を免れ、特別保護建造物に指定され改築されました。以後沖縄神社の拝殿として使用されました。昭和4年(1929)には国宝に指定されたのでした。
 城の地下に日本軍(第32軍)の指令部壕が掘られていました。そのため昭和20年(1945)の沖縄戦でアメリカ軍の猛烈な砲撃を受け炎上、地上からその姿を消したのでした。
 戦後、沖縄を直接統治したアメリカは、昭和25年(1950)に首里城跡に琉球大学を創立しました。守礼門などはいち早く復旧されましたが首里城跡は昭和57年(1982)大学が移転するまで手が付けられませんでした。
 平成4年(1992)、本土復帰20周年を期に、明和5年(1768)の工事記録として残る資料を参考にして現在の首里城がよみがえったのです。
 平成12年(2000)には、首里城跡として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されました。
 首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもありました。神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあったのです。
 首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していたようです。首里城は文化芸術の中心でもあったのです。

守礼の門
しゅれいのもん
 守礼門は首里城外にある門の一つです。この門は首里城への事実上の入口です。享禄2年(1529)、尚清王時代に創建されました。
 門は四本の柱で支えられ扁額が掲げられています。これは三間牌楼形式と呼ばれ、中国でよく見られる形状の建物です。中国建築と日本様式の影響が見られる門です。
 2層の屋根は赤瓦葺きで、中央に「守礼之邦」の扁額が掲げられています。琉球は礼節を重んじる国であるという意味だそうです。
 沖縄戦で破壊され、昭和33年(1958)に復元されました。門の中央の通路は国王専用だったそうです。現在2千円紙幣のデザインに採用されています。

園比屋武御獄石門
そのひゃんうたきいしもん
 守礼門をくぐると左手に園比屋武御獄石門があります。国王が長旅に出る際、道中の安泰を祈願した拝所だったそうです。
 この石門は尚真王時代の永正16年(1519)に創建されました。昭和32年(1957)に石門だけ復元されています。
 扉以外は琉球石灰岩や微粒砂岩などを使用しながら、木造建築風に仕上げています。平成12年(2000)12月に琉球王国のグスク及び関連遺跡群の一つとしてユネスコ世界遺産に登録されました。

歓会門
かんかいもん
 首里城への第一の門が歓会門です。首里城の城郭内への入口になります。俗に「あまゑ御門」というそうです。 「あまゑ」は古い言葉で「歓び」を意味で「歓会」となったようです。
 歓会門は尚真王時代(1477-1526)に創建されたようです。沖縄戦で破壊されましたが、昭和49年(1974)に復元されています。
 中国風のアーチ式の門の上には入母屋造、本瓦葺きの木造建築の櫓が重ねられています。門の幅は3m程度であり正門の割には小さい感じがします。
 国王や役人、外国からの賓客だけが通ることができた正門だったそうです。両脇には石獅子が配置されています。

龍樋
りゅうひ
 歓会門をくぐって右手の方向にある石段を上ると途中右側に「龍樋」があります。「龍樋」の名称は龍の口から琉球一といわれた湧き水が流れ出ていることから名付けられたそうです。

 国王や中国からの冊封使(さっぽうし)の飲み水とされていました。龍の頭の部分は石に彫られたもので、大永3年(1523)に中国からもたらされたものといわれていますが、沖縄戦で一部破壊されたため戦後に修復されたそうです。

瑞泉門
ずいせんもん
 首里城第二の門です。「瑞泉」という名前は門の手前の「龍樋」に因んで付けられたといわれています。創建は文明2年(1470)頃といわれ沖縄戦で焼失後、平成4年(1992)に復元されました。

 瑞泉には立派なめでたい泉という意味があるそうです。国王や冊封使の飲料水となった清水は、琉球一と讃えられていたそうです。
 瑞泉門は別名「ひかわ御門」といわれています。「ひ」は樋のことで「かわ」は沖縄では井戸や泉の事を指します。

漏刻門
ろうこくもん
 漏刻門は首里城第三の門です。瑞泉門と同形式で造られています。
 「漏刻」というのは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことからこの名が付いたそうです。
 5世紀に創建されたそうです。老朽化のため昭和初期に撤去されましたが、平成4年(1992)に復元されました。
 国王に敬意を表すため、駕籠での入城が許されていた高官もこの門からは下りて歩いて入城したそうです。そのため「かご居せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれています。
 石畳はざらざらした石が使われていました。滑らないように考えられたのかもしれません。
 石積みはすき間がないくらい精巧に切断されて積まれています。

日影台
にちえいだい
 漏刻門をくぐると広場があります。そこには日時計がおかれています。漏刻門の水時計の補助的な道具として使用されたようです。
 日影台には十二支が刻まれた時刻板に銅製の棒が取り付けられていたそうです。この場所付近は石で造られた広いテラスのようになっていて海まで一望できます。


万国津梁の鐘
ばんこくしんりょうのかね
 万国津梁の鐘は長禄2年(1458)に首里城正殿に掛けられた鐘だそうです。ただしこれはレプリカです。海洋貿易で栄えた琉球王国の気概を示す銘文で有名だそうです。
 この鐘は供屋(ともや)と呼ばれる建物に吊されています。古い絵図などの資料に基づいて復元されています。

広福門
こうふくもん
 漏刻門をくぐると左側は広場ですが、右側には今までとはかなり様式の違う広福門があります。創建年代は不明で、明治末期には撤去されたようです。平成4年(1992)に復元されました。
 正面に向かって左側が士族の財産をめぐる争いを調停する大与座、右側が神社仏閣を管理する寺社座という役所がおかれていたようです。

首里森御獄
すいむいうたき
 首里森とは首里城の別称です。御獄(うたき)とは沖縄の聖地または拝所のことだそうです。琉球開闢神話によれば、神が造った聖地であるとされ、首里城内で最も格式の高い拝所の一つなのです。

奉神門
ほうしんもん
 奉神とは「神をうやまう」という意味です。別名「君誇御門」(きみほこりうじょう)ともいわれています。3つの入口のうち中央は国王や中国からの冊封使など身分の高い人だけが通ることができたそうです。
 門に向かって左側は薬、茶、タバコなどを扱った「納殿」(なでん)、右側は城内の儀式などに使われた「君誇」という部屋になっていたそうです。

首里城正殿
しゅりじょうせいでん
 奉神門をくぐると、正面に「御庭(うなー)」があり、その正面奥に「正殿」があります。政務や儀式が行なわれていた首里城の顔です。幅約29m、奥行き約17m、高さ約16m、丸柱は直径約40cmあります。
 敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で色違いの列によって儀式の時、位の順に並ぶ目印になりました。中央の道は「浮道」(うきみち)といい国王や冊封使など身分の高い人のみ通れました。
 「正殿」の正面、唐破風の妻壁中央には火焔宝珠、両脇には金龍と瑞雲の彫刻、中央上部には龍頭が飾られています。鮮やかな建物の色や龍の文様は中国風で、構造や正面の破風屋根などは日本風です
 現存の「正殿」は正徳2年(1712)頃に再建された「正殿」をモデルとし、平成4年(1992)に復元されたものです。琉球王国最大の3階建て木造建築物です。
 正面の石段脇に建つ細粒砂岩(にーび)から成る龍の彫刻「大龍柱」は昭和初期の改修時に向きを変えられて現在は対面しています。その奧にはもう一対の「小龍柱」があります。後の建物は現在展示室になっている番所・南殿です。
 龍は国王のシンボルで邪悪なものをはねつけるものとされていたそうです。本来5本の爪が4本しかありません。中国の国王に遠慮した印だとされています。

御差床
うさすか
 「正殿」の一階にある「御差床」です。「御差床」とは儀式や政治の際に国王が座る玉座のことです。背後の障子の裏側には二階に通じる階段があり国王がここに現われるときに使用されました。「御差床」の両脇には金龍と五色の雲が描かれた朱柱があります。
 二階は大庫裏(うふぐい)と呼ばれ、王家の催事が行なわれたところです。中央には一階と同様に「御差床」があります。その後方には「西のこちゃ」や国王と女官が国家の安泰などを祈願した「おせんみこちゃ」という間があります。
 かつては「御差床」の上部には中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも架かっていたといわれています。現在、架かっている「中山世土」もその一つです。琉球国中山の地位を永遠に保証するという意味があります。

黄金御殿
くがにうどぅん
 黄金御殿は国王と王妃の居間や寝室があった場所です。正殿を境に西側が政治や外交を中心とした表の世界、東側は女性が取り仕切る奧の世界でした。

二階御殿
にーけーうどぅん
 二階御殿は「御住居所御殿」(ごじゅうきょしょうどぅん)とも呼ばれ国王の日常的な居室として使われました。創建は18世紀です。平成12年(2000)に復元されました。


右掖門
うえきもん
 「御庭」からの出口になっているのがこの「右掖門」です。国王の親族や女官の生活の場であった本殿裏側のエリアへ通じる門として機能していたといわれています。
 首里城にいくつかある裏門の一つである右掖門は15世紀頃の創建といわれています。他の建築物と同様、沖縄戦で破壊されました。発掘調査で遺構が確認され、この遺構の上に新たに石を積んで平成12年(2000)に復元されました。

久慶門
きゅうけいもん
 「久慶門」は現在、城郭内見学順路の出口になっています。「歓会門」が正門であったのに対し、「久慶門」は首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれています。
 「久慶門」は「ほこり御門」と呼ばれ、歓会門と同じく木造瓦葺きの櫓をもつ石造アーチ門です。「ほこり」は「歓会門」の「あまゑ」と対になっていて「よろこびほこる」という意味になるそうです。昭和58年(1983)に復元されました。


沖縄県の旅と歴史へ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置