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愛媛の旅と歴史
愛媛の旅        松山市

松山城
まつやまじょう
愛媛県松山市丸之内1 城山公園内
Tel 089-921-4873


 松山城は加藤嘉明が築きました。嘉明は羽柴秀吉の家臣で、20才の時に賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として名をはせました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により徳川家康より伊予の半国の20万石の所領を与えられました。
 嘉明は慶長7年(1602)、勝山に城郭を築くため、足立重信を普請奉行に任じて地割を行ない築城に取り掛かりました。翌慶長8年(1603)に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名前を使いました。
 松山城は、勝山山頂部分に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、北側に北の郭、東側に東の郭を設けた広大な城です。姫路城、和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城です。
 加藤嘉明は松山城が完成させた寛永4年(1627)に会津に転封されてしまいます。 そのあとは、蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入封しました。しかし在城7年目で京都で病没し、嗣子がいなかったために断絶してしまいました。
 その後寛永12年(1635)7月、伊勢国桑名11万石城主・松平定行が松山15万石に入封しました。以来、明治維新まで15代にわたって松平家が松山を治めました。
 松平家はもともと久松姓を名乗っていましたが、松平定行の父定勝が徳川家康の異母弟であったので松平姓と葵の紋を与えられたそうです。
 天明4年(1784)、落雷のため天守をはじめ多くの建物が焼失しました。藩の財政難のためなかなか再建されず、文政3年(1820)に再建工事に着手し、安政元年(1854)にようやく再建されました。
 天主をはじめ、門、櫓など21の建造物が国の重要文化財に指定されています。この時に再建されたものが中心になっています。
 乾櫓、野原櫓、隠門、隠門続櫓は慶長年間頃のものだそうです。昭和に入り小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのために焼失してしまいました。
 しかし天守をはじめとする櫓や門は威風堂々立ち並び、昭和41年(1966)からの総木造による復元工事も進み、本丸一帯の小天守、太鼓櫓などの建物も復元されました。


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