あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
高知の旅と歴史
高知の旅        高知市

高知城
こうちじょう
高知県高知市丸ノ内1
Tel 088-824-5701


 高知城は南北朝時代、南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、今の高知城がある大高坂山に城を構え、大高坂山城と称したのが最初です。
 その後、興国2年(1341)、松王丸は北朝方の細川禅定らと戦い敗れ落城し、廃城となりました。
  長宗我部元親が四国を制覇後、豊臣秀吉に敗れ土佐国一国のみを安堵されました。
 元親は九州遠征の後の、天正15年(1587)に前の大高坂山城の地に城を築きました。そして天正19年(1591)、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築き、本拠を浦戸に移しました。
 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで西軍についた元親の子の盛親は改易されました。
 新しく入封したのは、山内一豊でした。尾張黒田城主、山内盛豊の3男として誕生し、秀吉に仕え、目覚ましい働きを重ねてきました。近江、長浜2万石の城主となった後、小田原攻めの武功により掛川5万石の城主になっていました。
 土佐国一国24万2千石を与えられた山内一豊は掛川城から入封し、浦戸城に入りました。
 慶長6年(1601)、一豊は城下町としての浦戸は狭いため、百々綱家(どどつないえ)を総奉行に任じて、大高坂山城跡に本丸の造営を始めました。
 慶長8年(1603)、本丸と二の丸が完成し、河中山城(こうちやまじょう)と改名されました。慶長15年(1610)、2代藩主忠義の時、高智山城と改名されました。度重なる水害で、河中山城の名を忌み嫌い、竹林寺の空鏡によって名付けられたそうです。
 翌、慶長16年(1611)に三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成しました。 その後、高知城と呼ばれるようになり、城下も高知と呼ばれるようになりました。
 享保12年(1727)に高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外のほとんどが焼失しました。享保14年(1729)、8代豊敷は、深尾帯刀(ふかおたてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手しました。
 寛延元年(1748)、天守ほか櫓・門などが完成しました。そして宝暦3年(1753)に高知城の再建が完了しました。現在見られる建造物の大半は、この時に再建されたものです。前の高知城を忠実に再現したといわれており、高欄を設けるなど復古型の形式をとっています。
 天守閣をはじめ、詰門や東西の多聞櫓、黒鉄門など15棟の建物が重要文化財に指定されています。天守閣のある本丸は、全国で唯一天守と御殿が両方残っています。
 明治6年(1873)の廃城令に伴い、高知公園となりました。この際に、現存残されている建造物以外の建造物は破却されてしまいました。
 昭和9年(1934)に天守など15棟の建造物が国宝に指定され、昭和25年(1950)それらは国の重要文化財に再指定されました。昭和34年(1959)に国の史跡に指定され、平成18年(2006)日本100名城に選定されました。


高知県のトップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置