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信州上田の旅と歴史
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上田藩主居館跡
うえだはんしゅきょかんあと
(上田高校正門)
長野県上田市大手1−4−32
Tel 0268-22-0002(上田高校)


 上田藩主居館跡は歴代上田藩主が住んでいた所です。門は藩主屋敷にふさわしい豪壮な造りの薬医門です。今はこの門は県立上田高等学校の正門になっています。春は桜が咲き誇り、晩秋には紅葉した葉が堀をうずめます。
 関ヶ原の戦いの後、上田城は破却されました。昌幸・幸村(信繁)の活躍で中山道で関ヶ原を目指した徳川秀忠軍は戦いに遅参させられてしまいました。このことで秀忠の怒りは大きく、城すべてを破却したようです。
 しかし同じ真田の一員でもあった真田信之(信幸)への信頼は厚く上田と沼田の地を安堵しました。城のない上田を治めるために建てたのがこの居館でした。城主の御殿は一般的には城の本丸に設けられます。しかし上田の場合は城から大分離れたこの地に置かれたのです。
 上田藩主の居館は藩政の中心施設である藩庁でもあり、実質的な上田城の本丸でもあったのです。元和8年(1622)、真田信之は松代に転封となり、故郷上田を後にしました。信之は松代藩を築き93才まで生き、90才まで藩政に携ったそうです。
 上田には小諸より仙石氏が入封し、その後、松平氏が入りました。上田城も再建されましたが、藩主の居館はそのまま移転されず明治維新まで続きました。現在は屋敷門と真田時代の堀だけが昔を偲ばせています。


上田藩主居館表門
 上田藩主居館の表門は寛政元年(1789)の火災で焼失した翌年に再建された薬医門です。前面に4本の太い親柱が並び、中央に大扉、左右に潜り戸が付いています。後ろ側は左右の控え柱を通し梁でつないでいます。
上田藩主居館表門
 普通の門では親柱が棟の真下に立っていますが、この表門では棟の真下より少し前に親柱が立ち、控え柱が後方にある造り方をしています。昭和44年()に上田市の文化財に指定されています。
上田藩主居館表門



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