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信州上田の旅と歴史
上田・真田の旅        上田市真田

真田氏記念公園
さなだしきねんこうえん
長野県上田市真田町下原(しもはら)


 上田から群馬県境の鳥居峠に抜ける国道144号線の真田町の入口下原に真田三代の碑があります。真田町が真田氏の発祥の地である証しを表現しています。
 公園といってもレリーフ像と真田三代の略記がある程度ですが「真田氏発祥の郷」の石碑は池波正太郎氏の筆によるものです。「真田太平記」によって真田氏の知名度が上がりました。

 三代のレリーフは、中央が真田幸隆、向かって右が真田昌幸、左が真田幸村です。岡田益雄氏によって創られたそうです。


真田幸隆(幸綱)
 真田氏は海野氏を祖としていま幸隆以前はよくわかっていないようです。幸隆は出家後の名で幸綱と名乗っていました。 天文10年(1541)武田信虎、諏訪、村上連合軍は海野平に侵攻、幸隆らは上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼って逃げたそうです。
真田幸隆
 その後幸隆は敵であった武田信虎の子、信玄に仕官したのです。信玄の片腕となり、「信濃先方衆」「上州先方衆」として活躍します。天文20年(1551)幸隆は調略で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復したのです。こうして真田一族は旧領である真田郷をはじめ小県一円、上州吾妻をその勢力下に収めていきます。
戸石城址


真田昌幸
 幸隆は天正2年(1574)死去し、長男の信綱が家督を継ぎました。天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で弟の昌輝共々討死にしてしまいます。三男の昌幸は信玄の小姓をしたあと甲斐の名門・武藤家に入りましたが戻って真田を継ぐことになりました。
真田昌幸
 昌幸は天正8年(1580)上州沼田城を攻略し版図を拡げました。天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、織田・北条・上杉・徳川らの諸勢力の中で独立領主化しました。沼田領をめぐる対立で、天正13年(1585)に徳川が大軍を率いて上田城を攻撃しましたが撃退させました。
真田本城より
 北条氏との沼田領争いではとうとう天下人・豊臣秀吉をも動かして、北条氏を滅亡に追い込んでしまいました。慶長5年(1600)関ヶ原の役では、昌幸と次男・幸村(信繁)は西軍に味方し、長男の信之(信幸)は東軍について袂を分かちました。
関ヶ原古戦場
 昌幸は徳川秀忠の率いる大軍を上田城で参戦させ関ヶ原に遅参させたのですが東軍は大敗してしまいました。昌幸・幸村は信之の助命嘆願で高野山蓮華定院で蟄居となりました。その後紀州九度山へ移り、慶長16年(1611)昌幸は九度山で亡くなりました。
九度山真田庵


真田幸村
 「真田源治郎信繁」が本名で幸村と書かれたものはないそうです。しかし幸村の方が好きなのでこの名にしておきます。昌幸死後の慶長19年(1614)豊臣秀頼の使者が九度山を訪れ家康打倒の協力を求めたのでした。
真田幸村
 3月18日、幸村は大助と共に14年住んだ九度山を後にして大阪城に入城しました。豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、家康の名を分断し、豊臣家の繁栄を願い徳川を呪っているとして難癖をつけたことから対立したものでした。
 同年11月大坂冬の陣が起こります。徳川軍は約20万の軍で大坂城を包囲しました。幸村は南側の最も重要な地点に出丸「真田丸」を築いてさんざんに徳川軍を翻弄します。その後、一旦は和睦が成立しました。口約束で、大阪城の外堀を埋めることも合意していましたが内堀まで埋められてしまったのです。
方広寺
 翌年夏の陣が起こりました。堀がない大坂城は裸同然でした。そんな中、幸村は家康の本陣に猛烈な突撃を敢行し、「もはやこれまで」と自刃すら覚悟させた活躍をしたそうです。5月7日最後の決戦になり幸村も壮絶な最期を遂げたそうです。
大阪城


真田信之
 幸村の活躍で陰に隠れた存在になった兄・信之ですが一番優秀ではなかったかと思います。また妻である小松姫の力も大きかったと思います。
松代長国寺



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