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信州上田の旅と歴史
上田・国分 八日堂・信濃国分寺公園

八日堂
ようかどう
信濃国分寺
長野県上田市国分1125
 聖武天皇の勅願で全国各地に建立された国分寺は、信濃国では上田に置かれました。当時の国分寺跡は史跡公園になっていて当時の遺構を見ることができます。現在の国分寺はすぐ近くに移建されたもので、境内には国指定重要文化財「三重塔」があります。
 毎年1月7・8日に八日堂縁日が開かれ、厄除けのお守りである「蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」(上田市指定文化財)や、だるまが販売されます 本堂までの細い参道には200軒を超える露店が並び、歩くのもやっとの大にぎわいになります。
 「国泰らかに人楽しみ、災いを除き福至る」を祈願された、天平十三年(741)の聖武天皇の詔は、国々に国分寺(僧寺と尼寺があった)という寺を建てさせ、国家の平和を祈らせるものでした。
 全国六十六ヶ国と壱岐・対馬の二島に国分寺を建立し、仏教の弘通により国土安穏・万民豊楽を祈願するとともに文化の興隆をはかったのです。奈良の東大寺が総国分寺として位置づけられました。

 創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したようです。尼寺はその後も当初の地にしばらく存続したようですが、この事件後約300m北方の現在の地に寺域が移転したと考えられています。国分寺であったころから、毎月八日にお経を上げるので「八日堂〔ようかどう〕」ともいわれました。正月の八日は特にお参りする人々が大勢いて、上田の「八日堂」は有名になりました。

 律令制度の崩壊にともない国家の保護が失われた国分寺は、次第に衰退した考えられます。 境内地には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が存在しています。また源頼朝が堂塔の再建を誓願したとの寺伝があるので、鎌倉期以降に現地での復興が始まったようです。

 室町時代には現存最古の建物である三重塔が建立され、地域民衆の信仰の中心となりました。八日堂(ようかどう)縁日の市は当地方の交易の場ともなりました。八日堂の名は今も信濃国分寺の俗称として親しまれている。また民間信仰である蘇民将来信仰も取り入れ、この信仰に基づく蘇民将来符は現在でも有名である。



信濃国分寺史跡公園
しなのこくぶんじしせきこうえん
上田市国分

 信濃国分寺史跡公園は、1,200年以上前の天平13年(741年)、聖武天皇の詔(みことのり)により諸国に建立された国分寺の遺跡です。
 創建時期は明らかではありませんが、延喜式には寺料四万束とあり、相模、伊勢などの国分寺の規模で創建当時は大きな建物が並ぶ立派なお寺であったと想像されます。
 僧寺と尼寺がほぼ同規模で、しかも境を接して造られたいて極めて珍しい形です。
 その後、現在の国分寺(八日堂)の敷地に移転したため、この場所はしだいに土の中に埋もれ長い間、水田や桑畑の下に眠っていました。現在の史跡公園は、昭和38年から昭和46年にかけて発掘調査し、整備を行ったものなのです。


 しなの鉄道が遺跡の中央を横切っているが残念ですが、史跡公園として良く整備されています。立派な資料館もあります。信濃国分寺跡を上田地方の古代史のなかから理解するよう、原始から平安時代までを8つのテーマに区分し展示しています。
信濃国分寺公園にはケヤキ並木やカバンの藤など多くの木や草花があります。カバンのフジというのは八十二銀行の創始者が鞄に入れてもってきたフジの花を八十二銀行上田支店の庭から移植したものです。



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