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秋田の旅と歴史
秋田の旅     秋田市

久保田城址
くぼたじょうせき
秋田県秋田市千秋公園1−1
Tel 018-832-7892


 秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門です。関ヶ原の合戦のあと、常陸国から秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に慶長8年(1603)新たに城を築きました。
表門(一ノ門)
 神明山は3つの高地からなる標高40mの起伏のある台地で三森山とも呼ばれていたそうです。本丸は最も高いところを削平や土盛をして造られました。
 表門(一ノ門)は久保田城本丸の正門です。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされていて厳重な守りを固めていました。
 表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられていました。池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿がありました。
 御物頭(ものがしら)御番所が復元されています。久保田城内の二ノ門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、 火災の消火等を担当していた物頭足軽の組頭の詰所でした。
御物頭御番所
 市制百周年を記念して八つの御隅櫓が復原されています。土塁の上を多聞長屋と板塀で囲んで要所には御隅櫓を置いていたのです。
 北西隅には武器庫を兼ねた御隅櫓を設けました。西南隅の土塁の上には櫓座敷と呼ばれる書院風2階建ての「御出し書院」が造られました。
 佐竹義宣(よしのぶ)は義重の長男で幼名は徳寿丸と呼ばれました。伊達政宗とは母が兄弟で従兄弟にあたります。天正14年(1586)、家督を相続し、天正18年(1590)秀吉の先兵として南奥羽にて北条側の政宗と対峙しました。
  北条氏滅亡後、義宣は常陸・南奥羽・下野を得て54万石の大大名となり、政宗はその機略により命は助かるものの、会津を没収され58万石に減封されました。
 義宣は宇都宮家の所領没収に至るお家騒動で縁者としての責任を問われそうになりました。その時、石田三成のとりなしで難を逃れました。関ヶ原の合戦前、三成暗殺計画の折は、自ら三成を駕籠に乗せ騎馬で三成を守り徳川家康に釈明して窮地を救ったそうです。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは両軍に味方を約束して、あいまいな態度を取っているうちに家康方の勝利が決ってしまいました。
 慶長7年(1602)、上洛した32才の義宣は、常陸(茨城県)54万石を没収され慶長7年(1602) 秋田に転封し初代藩主になります。石高も20万石と半分以下になりましたが佐竹氏は明治まで秋田を治めました。義将の血が受け継がれたのです。


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