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福島の旅と歴史
福島の旅      会津若松市

鶴ヶ城(若松城)
つるがじょう(わかまつじょう)
福島県会津若松市追手門1−1
Tel 0242-27-4005 (会津若松市観光公社)


 会津佐原氏の3代目光盛は、故郷であった相模国三浦郡蘆名から名をとり、蘆名氏を名乗りました。至徳元年(1384)、7代目直盛が会津郡門田荘黒川に黒川城を築きました。これが鶴ヶ城(若松城)の前身です。
 その後、天正17年(1589)摺上原の合戦で蘆名氏は敗れ、城は伊達政宗の居城となりました。小田原を平定した豊臣秀吉は蒲生氏郷をここに入封させ奥羽の要にしました。文禄2年(1593)蒲生氏郷は本格的な天守閣を築城しました。
 蒲生氏郷は城を石垣作りの大城郭に改築しました。5層7重の天守を造り、その名を「鶴ヶ城」と命名して城下町は若松と名付けられました。この時に積まれた石垣が現在の天守台で、400年経た現在も残っています。その後、加藤嘉明、明成、保科正之が城主となりました。
 会津藩の藩祖、保科正之は2代将軍徳川秀忠の子です。3代藩主正容(まさかた)の時に松平姓を名乗るようになり、会津松平家は「御三家」につぐ「御家門」という家格を持っていました。幕末、9代藩主松平容保(かたもり)は京都守護職についたため倒幕派から敵視されました。
 慶応4年(1868)1月、戊辰戦争が起こり、薩摩、長州藩などの倒幕勢力と会津、桑名藩などの旧幕府勢力との戦いになりました。同年8月、白虎隊は戸ノ口原で破れ、飯盛山で戦火に包まれた鶴ヶ城をみて自刃、その後会津藩は降伏しました。
 鶴ヶ城は1階から4階まであり会津歴代藩主の資料、刀剣や郷土資料などたくさん展示されてます。天守閣には、自刃した白虎隊士と松平容保の肖像画が飾られてます。天守閣から会津若松市を一望できます。

茶室鱗閣
 茶室鱗閣は蒲生氏郷が千利休の子・少庵を会津にかくまっていたときに使われていた茶室です。
茶室鱗閣

 入り組んだ茅葺き屋根と板葺きの庇を持ち、武家茶道の様式を備えた東日本には珍しい草庵風の茶室です。会津若松市指定文化財になっています。
茶室鱗閣


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