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山形の旅と歴史
岩手県の旅     盛岡市

岩手公園
いわてこうえん
岩手県盛岡市内丸1−6


 「三日月の丸くなるまで南部領」と領地の広大さを誇った南部藩20万石の城下町です。盛岡城跡の石垣は、盛岡産の花崗岩を積み上げたもので、東北3三城跡のひとつとして知られ今は岩手公園になっています。
 盛岡の地は旧名を不来方(こずかた)といい、南北朝時代には工藤氏が支配していました。その後、北奥州統一を目指す南部氏によって攻略されました。
 南部氏は甲斐源氏の流れをくむ糠部の地頭の南部光行が祖です。三戸南部氏と八戸南部氏の二つの勢力がありましたが、室町時代中期の康正年間(1455-1456)以後、三戸南部氏の勢力が強くなりました。
 戦国時代に入って、南部氏26代の当主の南部信直の時代に南部氏宗家の基盤が固まりました。小田原征伐の際、信直は津軽為信に一歩遅れ津軽の独立を許したものの、秀吉に取り入り本領7郡を安堵されました。
 天正19年(1591)南部氏一族の九戸城主九戸政実(くのへまさざね)が反乱を起こします。信直は秀吉軍の援助のもとに政実を攻略します。乱後、信直は新たに3郡を与えられて10万石となり、居城を三戸城から九戸城に移し、城の名を福岡城と改めました。
信直は地理的に不利な福岡城から北上川と中津川の合流地点の要害の地・不来方の地に新城を築くこととし、慶長2年(1597)に鋤初め(すきはじめ)、翌3年に豊臣秀吉より正式に盛岡城の築城普請を許可され、築城工事が進められました。
 南部信直の嫡男利直は慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で徳川家康側に属したために本領を安堵され、父の後を引き継いで築城工事を進め、不来方を「盛り上がり栄える岡」になるようにとの願いを込めて盛岡と改名しました。
 盛岡城が完成したのは利直の後を継いだ利直の三男重直の時です。寛永10年(1633)で、実に40年あまりかけたことになります。
 二の丸跡には「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」という石川啄木の歌碑が建っています。また、岩手公園東側には宮沢賢治の格調高い文語詩『岩手公園』の碑文もあります。


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