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宮城の旅と歴史
宮城の旅    宮城郡松島町

瑞巌寺
ずいがんじ
宮城県宮城郡松島町松島字町内91
Tel 022-354-2023


 瑞巌寺は天長5年(828)慈覚大師円仁によって創建された奥州随一の禅寺で、正式には「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくじ)」という長い名前です。伊達家累代の菩提所です。
 東北を代表する観光地・松島の中軸を成し、千年を越す寺歴に、奥州藤原2代基衡、執権北条時頼、仙台藩藩祖伊達政宗らの名を連ねる東北地方きっての名刹です。
 杉の巨木が参道の両側に立ち並び、昼でも薄暗い境内です。ここを抜けると桃山文化風の豪壮華麗な大堂宇が甍を並べています。国宝の本堂と庫裏をはじめ、多くの堂宇が文化財の指定を受けています。
 当初は天台宗で延福寺と称し比叡山延暦寺と肩を並べる大寺院でした。その後、鎌倉幕府の執権である北条時頼によって廃絶させられ、法身禅師(法身性西)が開山に迎えられ、臨済宗建長寺派円福寺となりました。
 法身禅師は北条時頼が宋から招いた高僧欄渓道隆(鎌倉建長寺開山の大覚禅師)に円福寺の住持職を譲ります。大覚禅師が入山すると、円福寺の格式は更に高まり、東北最大の禅院として栄えました。
 室町時代には五山十刹制度の諸山にも列する程にもなりました。近世に入ると、伊達政宗が、慶長9年(1604)8月、自ら縄張りし、足掛け5年の歳月をかけ、慶長14年(1609)に奥羽屈指の大寺院を建立しました。
 遠く紀州熊野の山中から良材を運搬させ、諸国から130人以上の名工を集めました。約5年間という期間をかけ桃山建築の粋を尽くした建物を造営し、スペイン人ビスカイノに「木造では円福寺が世界一」といわしめたのでした。
 現在も当時の建物が残り本堂と庫裏は国宝、御成門、太鼓塀、中門は国重要文化財、総門は宮城県指定重要文化財にそれぞれ指定されています。
 瑞巌寺完成の翌年、政宗が小さい頃の学問の師、虎哉(こさい)禅師の推薦で越前法泉寺から第96代住持として海晏(かいあん)和尚が招聘され、今の寺号「瑞巌寺」になりました。
 慶長16年(1611)虎哉と海晏が相次いで没し、月叟玄良、碧堂智崔などが住持しましたが短期間で終わりました。政宗は傑僧誉れ高い雲居(うんご)禅師に住持になってもらいたいと頼み続けましたが、二度にわたって断られました。
 政宗の没後、雲居禅師は2代藩主忠宗の強い願いを聞き入れ第99代として住持し、政宗の百ヶ日忌を営んだということです。
 政宗は伊達家の菩提寺を瑞巌寺と定めましたが、完成後の瑞巌寺を、政宗が訪れたのはたった2回だけだったということです。
 瑞巌寺は、本堂(方丈)と庫裡を配置する禅宗伽藍で、御成門と中門を太鼓塀でつなぎ、中庭から見て、正面に本堂、右に庫裡と廊下、左に玄関が造られています。

 国宝の本堂は書院造りで入母屋造り、本瓦葺きです。三方に上縁、下縁を廻らし、室中孔雀の間、仏間、上段の間、上々段の間など10室の部屋で構成されています。正面の幅は39m、奥行き25.2mです。京都の根来の大工衆が技を競った建物です。
本堂
 国宝の庫裏は切妻造りの本瓦葺きです。禅宗寺院の台所にあたります。屋根には入母屋造り本瓦葺きの大煙出しを載せています。唐草の透かし彫りなど名工の腕が冴えた庫裡の傑作といわれています。巨大さと妻飾りの彫刻、白壁と木組みのコントラストが美しく、屋根には煙出しが見られます。
庫裏
 御成門は、入母屋造り、本瓦葺き、軒の出も深く重厚な門です。本柱の後方に控柱を建て、前後の柱の中央に屋根の棟線が来ないで全面にずれる薬医門の形式です。国の重要文化財に指定されています。
御成門
 政宗の正室陽徳院田村氏愛姫(1568-1653)の墓堂です。万治3年(1660)孫の綱宗によって造営されました。平成18年(2006)から3年をかけ創建当初の豪華絢爛な姿に復元されています。宝形造、銅板葺、9尺(2.72m)四方の周囲に勾欄(手すり)つきの回廊を廻らし、正面に向拝と木階を備えています。県指定有形文化財です。
陽徳院(愛姫)御霊屋


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