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秋田の旅と歴史
山形の旅       鶴岡市

出羽三山神社
でわさんざんじんじゃ
山形県鶴岡市羽黒町手向手向7
Tel 0235-62-2355


 出羽三山神社は月山頂上の月山神社、羽黒山頂上の出羽神社、湯殿山中腹の湯殿山神社の3つを合わせ通称で「出羽三山神社」といっています。月山神社と湯殿山神社は、羽黒山の出羽神社に合祭し、恒例の祭典は「三神合祭殿」で行われます。
 開山は、推古元年(593)崇峻天皇の御子の蜂子(はちこの)皇子と伝えられています。崇峻天皇が蘇我氏に害された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入り、そこで、三本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったそうです。
 出羽三山の中でも羽黒山は山伏修行の中心的な山で修験霊場として有名です。羽黒山は、中世には別当寺大宝寺が鶴岡に城を構え、衆徒5千を擁したといわれています。高野山や比叡山をしのぐ修験道の東国33ヶ国の総本山でした。
 「行の山」「浄めの山」として古くから羽黒派古修験道の総本山、出羽三山は10大寺、8堂伽藍、寺領は6万6千貫で住坊8千余りの巨大な山岳寺院でした。永い歴史と伝統を持つ出羽三山信仰は他に例を見ない「多様にして限りなく深い信仰世界」を育て上げました。
 出羽三山は神仏習合時代は真言宗を中心に8宗兼学の山となり、江戸時代に入って天台宗に改め、明治維新後は神仏分離して古への神奈備山に帰りました。
 約2kmの登拝参道には、多くの摂社末社が鎮座しています。両側には巨杉が林立、森厳さに人を誘うようです。出羽三山神社は山伏修行の聖地で現在も多くの修験者、参拝者を集めています。

 羽黒山随神門は表参道の入口にあります。随神門より内は出羽三山神社の神域となります。神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がります。随神門はこの広い神域の表玄関なのです。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されました。明治に入り随神像を祭り、随神門となりました。
羽黒山随神門
 境内には天拜石と呼ばれる石があります。そのむかし、この奇石を通じ天を祭ったものだったようです。修験者の行法を行った場所の石だと思われています。
天拜石
 康平4年(1061)9月、源頼義は出羽の清原武則の支援により、阿部貞任・宗任を衣川・鳥海・厨川柵で破り前九年の役を平定しました。その1ヶ月前に阿部宗任が庄内に乱入しています。羽黒山宗徒がこれを防ぎ3500人が討死したといわれています。
 随神門をくぐり抜け、継子坂を下りきると祓川(はらいがわ)にかけられた赤い橋があります。これが「神橋」です。昔、出羽三山を登拝する全ての人がこの川で身を清めたそうです。
神橋
 神橋を渡ると左側に境内社・下居社があります。右手には須賀滝が流れ落ち、その下に祓川神社、岩戸分神社、不動明王が祀られています。須賀の滝の水は祓川に岸壁伝いに豪快に流れ落ちています。江戸時代初期、当時の羽黒山別当が月山から8kmにわたって水を引き、それが流れ落ちているといわれています。
須賀の滝
 須賀の滝は、昔は不動の滝と呼ばれていたそうです。この手前の祓川で出羽三山神社神職養成所では、冬の雪解け水の祓川に浸かり禊(みそ)ぎを行っているそうです。ふんどしで祓川へ入り心身を清めるのです。
祓い川神社
 注連掛桜(しめかけざくら)という桜の木があります。昔、出羽三山を参拝する人が祓川で禊ぎをした時、この桜の木の枝に注連(しめ)を掛けたことからこの名があるそうです。注連とは紙や麻で作った肩に掛けるもので清浄さを示しているそうです。
注連掛桜
 国宝「羽黒山五重塔」のそばに天然記念物に指定されている巨杉「爺杉」(じじすぎ)があります。樹齢は千年以上といわれ、樹高42m、樹の周囲10mもあります。すでに枯死した「婆杉」(ばばすぎ)とともに羽黒山中の最大木として古くから有名でした。「羽黒山の爺スギ」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。
爺杉
 羽黒山のスギ並木は昭和30年(1955)に特別天然記念物に指定されました。山麓の随神門から羽黒山頂まで、約2kmの参道の両側に茂っています。樹齢300年から600年の巨杉が壮観です。昭和61年(1986)には、「羽黒山参道の杉並木」が、森林浴の森100選に選ばれました。
スギ並木

羽黒山五重塔
 羽黒山参道「一の坂」登り口の杉並木の中に昭和41年(1966)に国宝に指定された「羽黒山五重塔」がひっそりと建っています。神社の境内にあるため、「五重塔」という名称は通称で、正確には「千憑(より)社」という出羽神社の末社で、大国主命を祭神として祀っている神社なのです。
羽黒山五重塔
 この塔は承平年間(931-937)に平将門が建立したと伝えられています。文中元年(1372)に長慶天皇の時代、庄内の領主で羽黒山別当であった武藤政氏が再建したようです。古くは瀧水寺の五重塔といわれ、付近に多くの寺院があったようですが、今は五重塔だけが残っています。慶長13年(1608)、出羽守であった最上義光(よしあき)が修造しています。四方の額は小野道風書と伝えられています。
羽黒山五重塔
 高さは29mの羽黒山五重塔は東北では最古の塔です。各層方3間5層、素木(しらき)造り、柿葺(こけらぶ)きの優美な塔です。正面は板唐戸で側面は連子窓となっています。初重に縁を設け、各重とも組み物は三手先、軒は二軒の構成です。柱頭柱間に間斗束(けんとずか)、腰長押(こしなげし)の下に束(つか)をたてるなど、古式の技法を伝えています。
羽黒山五重塔
 明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は神社となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されました。五重塔のみが取り壊されずに残されました。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったそうです。
羽黒山五重塔


出羽三山神社三神合祭殿
でわさんざんじんじゃさんじんごうさいでん
 羽黒山は羽黒派山伏の拠点地として繁栄してきました。崇峻天皇の子、蜂子皇子が3本足の霊鳥に導かれて羽黒山に登拝し、山頂に祠を祭ったのが始まりです。神仏習合時代を忍ばせる建築物や石碑など数多く残されています。
三神合祭殿
 出羽三山神社三神合祭殿は出羽三山の三神を祭る豪壮な建物です。神仏分離令が発令後に改称された出羽神社は月山と湯殿山が冬季間豪雪の為、司祭や参拝が困難なことから出羽神社の本殿で合祭することにしました。現在は三神合祭殿となっています。
三神合祭殿
 各々の祭神は出羽神社が伊氏波神(いではのかみ)、月山神社が月読神(つきよみのかみ)、湯殿山神社が大山祗神(おおやまづみのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っています。
三神合祭殿
 本殿はたび重なる火災に見舞われましたが、現在の社殿は文化元年(1818)に再建されたものです。入母屋、茅葺きの権現造りです。桁行13間2尺(24.2m)、梁間9間2尺4寸(17m)、高さは2丈3尺(28m)、厚さ約2、1mもあります。
三神合祭殿
 平安時代中期になると神仏習合により真言宗に奉仕するようになり、江戸時代初期、中興の祖といわれる第50代執行別当天宥によって天台宗に改宗されました。羽黒山参道の石段や杉並木の植林、山麓の田畑への引水などは、天宥の代になされた偉業です。
三神合祭殿
 三神合祭殿は羽黒派古修験道独特な建築様式から合祭殿造りなどともいわれます。内々陣は17年毎の式年造営が続けられ伝統と技術が古来から継承されています。向拝には様々な彫刻が施されています。茅葺の建物としては正法寺(岩手県奥州市水沢区)に次ぐ規模を持っていて「東三十三ヶ国総鎮護」として威厳と信仰の厚さを感じます。
三神合祭殿
 昭和45〜47年(1970-1972)にかけて、開山1380年祈念奉賛事業が催されました。その中の一環として漆塗替修復工事が行われ、きれいに塗られました。また、平成12年(2000)には国の重要文化財に指定されました。
三神合祭殿

 鐘楼は元和4年(1618)山形城主最上源五郎家信が再建寄進したものです。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物です。鐘楼堂は平成12年(2000)に国指定重要文化財に指定されています。鐘は建治元年の銘があり、東大寺・金剛峰寺に次いで古く、また、大きさもかなり大きなもので、「建治の大鐘」と呼ばれています。総高285、5cm、口径168cmで中世以前の鐘では東大寺鐘に次ぐもので東北地方では最大最古のものです。鐘も国の重要文化財に指定されています。
羽黒山鐘楼

 三神合祭殿前の鏡池は、本来の御神体といわれ、神秘の御池として古来より多くの信仰を集め、羽黒信仰の中心でもありました。周囲90mの神池であり、御手洗池(みたらしのいけ)と呼ばれましたが、古鏡が埋められていたことから鏡池といわれます。
鏡池
 昭和6年、鏡池からは、平安時代の鏡91面、鎌倉時代のもの56面など190面の鏡が多数発掘され、それ以前に見つかった物を合わせると500面ものが見つかりました。重要文化財にも指定され、出羽三山歴史博物館に収蔵されています。
鏡池

 出羽三山は蜂子皇子が推古元年に海路この地にいたり、羽黒山で修行したのち西暦593年(飛鳥時代)に月山、湯殿山を開いたと伝えられています。開祖の蜂子皇子を祀る蜂子社も山頂にあります。
蜂子社

 出羽三山は先祖の霊魂を祀る山としても信仰を集め、現在も祖霊の鎮魂を求めて来山する人々が多く訪れます。先祖供養する霊祭殿は昭和58年(1983)に再建されたものです。
霊祭殿
 霊祭殿は合祭殿に向かって右側にあります。三神合祭殿をお参りのあと先祖の御霊を供養する習わしがありました。その供養をするところです。社殿前に常香炉があったり、先祖供養するという点で神仏混合の名残りが感じられます。
霊祭殿

 東照宮は権現造り、銅板葺きの建物です。拝殿の外壁を朱色に塗り上げ、木口を金色にするなど格式の高さを感じます。正保2年(1645)、羽黒山中興の祖50代別当天宥が、将軍に願い出て羽黒山に勧請しました。最初は仮殿に安置し、同年5月、初代鶴岡藩主酒井忠勝が社殿を寄進しました。
羽黒山東照宮
 代々藩主の崇敬は厚く、慶安2年(1649)には2代藩主酒井忠当が参拝しています。また万治3年(1660)と寛文4年(1664)には3代藩主忠義が参拝しています。その際には300人ものお供がいたと伝えられています。
羽黒山東照宮
 酒井氏は徳川四天王の一人忠次の系統です。忠勝は忠次の孫にあたります。元和(げんな)八年(1622)出羽鶴岡に移封され、13万8千石を領しました。
 毎年7月15日に「花まつり」が行われます。三山神社の例大祭で各神社の神輿の渡御が始まります。この神輿の前に稲の花をかたどった造花の献灯がつきます。
 3基の神輿が神池を一巡すると、境内に集まった参拝客が五穀豊穣と家内安全の効験あらたかとされる献灯を奪い合うのです。
 8月31日の夜は八朔(はちそう)まつりがあります。山伏たちによって点火された護摩が、羽黒山頂に赤々と燃えさかり、多くの見物人で賑わうそうです。
 12月31日の夜は松例祭(しょうれいさい)が催されます。つつがむしという1333束の草束と綱でつくられた大松明(たいまつ)が神事のあと、細かく切られてまかれます。
 これが災難除けになるといわれ、それを奪い合う参拝客で雑踏するのだそうです。古式で執り行い、修験の本場羽黒山にふさわしい祭事であるようです。


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