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秋田の旅と歴史
山形の旅    山形市

霞城公園(山形城址)
かじょうこうえん(やまがたじょうし)
山形県山形市霞城町1−1
Tel 023-644-0253


 山形城は延文元年(1356)東北の南朝方に備えて、足利尊氏が出羽按察使に任命した斯波兼頼が翌年に館を構えたのが始まりです。斯波兼頼はこの地を拠点として出羽の南朝勢力を制圧。斯波氏の子孫は土着して地名の最上氏を名乗りました。
 戦国時代の天文15年(1545)、10代当主最上義守の長男、義光(よしあき)が生まれました。11代になった義光は次々に勢力を拡大させていきました。
最上義光像
 天正5年(1577)天童頼澄を追って天童を奪い、東根を攻撃。同9年(1581)新庄盆地に兵を進めて佐々木氏を倒し最上郡を平定しました。同15年(1587)尾浦城(鶴岡市)の武藤義興を滅ぼしました。
 その頃、伊達氏が南方へ侵攻したのに対して、義光は着々と北方へ勢力を広げていきました。義光の父、義守の妹義姫が政宗の母という親戚関係でした。
 関ヶ原の戦いの頃、直江兼継が率いる上杉軍が優勢のまま山形城まであと少しの長谷堂城まで侵攻してきました。最上は、伊達に援軍の要請をし、政景の援軍によって上杉を撤退させることができたのです。
 山形城は直江軍に攻められた時、山形城が秋の霞につつまれ、城内が隠れて攻撃されずに持ちこたえたとのいい伝えがあることから「霞が城」とも呼ばれるようになったそうです。
 最上義光は小田原北条攻めの際、豊臣秀吉のもとに真っ先に駆けつけ信頼を得ていきました。関ケ原合戦時には東軍の徳川家康に加勢して57万石の大大名となりました。西軍についた上杉氏は120万石から30万石に減封されたのでした。
山形城
 その後、義光は本拠地山形城下の整備、最上川の改修、庄内地方の新田開発、神社仏閣の復興など多くの民政事業の推進を計りました。慶長19年(1614)69才で波乱の生涯を閉じました。
 権勢を誇った最上氏も義光の孫の義俊の代にお家騒動が起こりました。義光には実子がいたのですが家康の息子を養子にしました。これが原因で家臣同士の権力争いになり、「最上騒動」が起こって改易となってしまったのです。
山形城
 元和8年(1621)徳川譜代の鳥居忠政が24万石で山形城に入封。その後は頻繁に城主の交替が行なわれ、廃藩まで12家を数えました。交替のたびに城主の石高が減少し、最後の水野氏はわずか5万石であったそうです。


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