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秋田の旅と歴史
山形の旅       山形市

立石寺(山寺)
りっしゃくじ(やまでら)
山形県山形市山寺4456−1
Tel 023-695-2002


 山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院( ほうじゅさんあそかわいん)立石寺といい、山形市の北東14kmの山形市の鬼門にあたる宝珠山の山腹に位置しています。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が貞観2年(860)に開山しました。
 立石寺は、開山後すぐに380町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596〜1624)期は2420石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けました。徳川3代将軍家光の時は1400石の寺領を得て僧坊も36を数えました。
 「奥の細道」で、芭蕉が立石寺を訪れ
 「閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声」
の句を詠んだことでも知られています。

 国指定重要文化財となっている根本中堂は立石寺本堂でもあります。延文元年(1356)、初代山形城主・斯波兼頼(しばかねより)が再建しました。本堂内には、慈覚大師作の木造薬師如来像が安置され、比叡山延暦寺から分火された火は奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈と3つに分けられ灯されています。
立石寺本堂
 立石寺は一山の総称でその名の堂宇はありません。この根本中堂が立石寺の本堂であり中心道場でなのです。薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されています。
立石寺本堂
 根本中堂の法燈は、千年以上の昔から火を灯し続けています。天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたものです。大永元年(1521)、天童頼長により一山が焼かれた時、円海和尚が比叡山より改めて火を貰い受けました。その50年後の元亀2年(1571)、織田信長によって比叡山が焼き払われ、再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたそうです。
立石寺本堂

 山寺の大イチョウです。
 根元の周りが約10mあります。幹部は空洞となって一部欠損していますが地上1.8mのところでは7.2mあります。高さは30mだそうです。昭和47年9月17日の台風で主幹が折れてしまったそうです。
山寺の大イチョウ

山寺日枝神社
 山寺日枝神社は根本中堂と松尾芭蕉の像がある中間ぐらいにあります。貞観2年(860)慈覚大師の開山にあたり、釈迦、薬師、阿弥陀三尊を安置して守護神としました。江戸時代までは山王権現といわれていました。
山寺日枝神社

念仏堂
 念仏堂は、慈覚大師が入唐の際、五台山竹林院で授かった念仏三昧の法を修めた道場です。宝冠をつけた大師作の阿弥陀如来像が本尊となっています。
念仏堂
 念仏堂には、徳川将軍家の霊碑、山形24万石鳥井左京亮や同15万石源直基などの位牌が安置されています。「常行念仏堂」の扁額は、東叡山第五世兼立石寺第51世公弁法親王の書です。
こけし塚

鐘楼堂
 「除夜の鐘」で知られる鐘楼堂です。鐘は招福の鐘として有名です。除夜の鐘は1月1日午前0時から打たれ、12月31日の夕方頃から鐘楼堂の入口に長い行列ができます。
鐘楼堂

山 門
 鐘楼堂を右に見て石段を登ると、左側に「山寺宝珠山立石寺」と彫られた2mを越す石柱があり、その先に、鎌倉時代末期の建立と伝えられ、「開北霊窟」の扁額を掲ぐ山門があります。
立石寺山門
 立石寺は、創建以来、たびたび火災にあいましたが、根本中堂と山門だけは当時の姿を残しています。山門は開山堂などへの入山口です。大仏殿のある奥の院までは800段の石段が待ち構えています。
立石寺山門

姥堂
 姥堂は、これを境にこれより上は極楽、下は地獄といわれています。つまり極楽浄土への入口なのです。十王経に書かれた鬼婆で、三途の川のほとりにいて亡者の着物を奪い取るという奪衣婆(だつえば)の像と地蔵尊が並んで祀られています。
姥堂

 姥堂の向かい側に、形が笠に似ていることから笠岩、笠投岩と呼ばれる巨岩が鎮座しています。慈覚大師が岩陰で雨宿りしたという伝説の岩です。
 天台宗の教学道場として開かれた立石寺は、古来より奇岩怪石の霊窟として広く知られています。凝灰岩の岩質やその肌を抉(えぐ)る多数の風化穴は幽境の聖域を感じさせます。

せみ塚
 蝉塚は、俳人壷中(こちゅう)を中心とする俳諧仲間が、宝暦元年(1751)、芭蕉が書いた短冊を埋めて石碑を建てたところです。碑の表に「芭蕉翁」、側面に「静さや岩にしミ入蝉の声」の句が刻まれています。背後には五大堂や納経堂、開山堂をいただく百丈岩の絶壁がそそり立っています。
せみ塚

弥陀洞
 蝉塚から更に登ると、直立した巨岩が見えてきます。長い歳月による自然の営みが岩を風化させ、阿弥陀如来の姿にみえるので「弥陀洞」と呼ばれています。岩の高さから「丈六(一丈六尺。約4.8m)の阿弥陀如来」とも呼ばれているそうです。仏の姿に見えた人には幸せが訪れるそうです。
弥陀洞

仁王門
 弥陀洞の先に奥の院の山門・仁王門があります。嘉永元年(1848)に再建されたケヤキ材の優美な門です。左右に安置された仁王尊像は、運慶第13代の後裔平井源七郎の作と伝えられ、傍らに高さ45cmの十王尊を祀っています。
仁王門
 仁王尊像は、邪心をもつ人は登ってはならないとにらみつけているのです。後方の閻魔王がこの門を通る人たちの過去の行いを記録するといわれています。
仁王門
 右側の岩穴に見える石塔には、亡くなった人のお骨が入っているそうです。他の岩穴にも古い人骨が納められているそうです。
仁王門


 修行の岩場があります。危険な岩場を通ってお釈迦様のみもとにいたる行場(ぎょうば)で、出世や欲望の為の修行者が岩場から転落したことも多かったそうです。
修行の岩場

 金乗院は山内支院の一つです。江戸時代までは12の塔中支院があり、多くの僧が修行に励んでいました。今は性相院、金乗院、中世院、華蔵院の4つの院が面影を残しています。
金乗院

開山堂
 開山堂は、立石寺を開いた慈覚大師の廟所で、立石寺第65世情田和尚が嘉永4年(1851)に再建しました。山内の僧侶が朝夕、食飯(じきはん)と香を供えお勤めしています。
開山堂
 堂内には、大師の座像が安置され、また、中国の天台山国清寺から伝えられた千年以上香煙をゆらし続ける不滅の「常香」があります。
開山堂

五大堂
 正徳4年(1714)に再建された舞台造りの御堂です。大聖不動明王、東降三世明王など五大明王を安置しています。
五大堂
 天下泰平を祈る道場で山寺随一の展望台になっています。五大堂の標高は約380mで、山寺でもっとも観光客に人気があるスポットの1つです。


納経堂
 納経堂は岩の上にある小さな堂です。写経を納めるところで、山内では最も古い建物だそうです。県の指定文化財です。真下には慈覚大師の眠る入定窟(にゅうじょうくつ)があります。
納経堂
 入定窟の調査が昭和23年(1948)から24年にかけて行われました。5体の人骨が発見されそのうちの1体は慈覚大師である可能性があるということです。
 入定窟の入口は四重の板扉で塞がれ、中はやや方形で奥行が五尺五寸(165cm)でした。大師のものと推定された遺骸は金棺に納められていました。頭蓋骨はなく木彫りの頭像が安置されていました。頭像の制作年代は平安初期と鑑定されたようです。

奥の院
 正面右側の古いお堂が奥の院の如法堂です。石墨草筆(せきぼくそうひつ)の写経道場で、明治5年(1872)に再建されています。
奥の院
 開山慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いたといわれている釈迦如来と多宝如来を本尊としています。比叡山延暦寺から分火された火は奥の院(如法堂)の常火に千年以上受け継がれています。
奥の院
 正面左側には大仏殿があります。像高5mの金色の阿弥陀如来像を安置しています。毎日卒塔婆供養(そとばくよう)を行っているそうです。
奥の院
 大仏殿の秋の彼岸の中日の施餓鬼法要(せがきほうよう)には宗派をこえた数千人の参拝者で賑わうそうです。
奥の院

 奥の院まで800余段の石段を、一段一段登ることによって、煩悩が消えて幸福になれるそうです。

三重小塔
 奥の院の手前の参道に戻り、看板に沿って別の石段を登っていくと、華蔵院に行きます。その手前に岩窟の中にすっぽりと納められた三重小塔があります。
三重小塔
 塔銘により、十穀静允の作で静運が寄進、建立が永正16年(1519)6月であることがわかります。この塔は、相輪頂までの高さが2.4m余りという全国で最も小さいもので、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。
三重小塔


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