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秋田の旅と歴史
山形の旅    米沢市

松岬公園
まつがさきこうえん
山形県米沢市丸の内1−1
Tel 0238-22-3189


 松岬公園は舞鶴城、松岬城と呼ばれた米沢藩主上杉氏の居城跡です。城は明治6年(1873)廃城になり翌年から公園として開放されています。堀と石垣を残していて桜の名所にもなっています。
 城が築かれたのは、鎌倉時代に奥州征伐の軍功によって大江時広が長井庄の地頭として来た暦仁元年(1238)の事でした。松岬城といわれました。姓を長井と改めた大江氏は、その後8代広房まで続きますが天授6年(1380)伊達宗遠(むねとう)に滅ぼされ伊達氏のものとなりました。
 伊達氏は10代、212年、この城を統治しました。16代晴宗の時には米沢城と呼ばれていた事が記録に残っています。天正19年(1591)、17代政宗の時、豊臣秀吉の命で本拠を岩出山城(宮城県)に移しました。
 秀吉の武将蒲生氏郷が3万8千石で入封。7年後の慶長3年(1598)会津120万石の上杉景勝の統治となりました。関が原の合戦の翌年、豊臣方に組みした為、徳川家康は上杉景勝を米沢福島30万石に減封しました。景勝は会津から将兵6000余騎を引き連れ、本拠を直江山城守の城のある米沢に移したのでした。
上杉謙信像
 景勝は慶長13年(1608)、城の修理と拡張をし18年に完成させています。蒲生郷安の時は近江国松ヶ崎の出身だった事から、城は「松ヶ崎城」と呼ばれていましたが景勝から「舞鶴城」と改められました。天守閣のない質素な城でした。
 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
 この名言は米沢藩中興の名君と仰がれる「上杉鷹山」(上杉氏10代)の言葉です。殖産興業に努力して藩運を挽回し、天明の大飢饉にも領内からは一人の餓死者も出さなかったそうです。
上杉鷹山像
 「舞鶴城」は明治2年(1869)に14代茂憲が版籍奉還するまでの272年間、上杉家歴代の居城となり、明治6年(1873)には取り壊されました。その後、城址には神社が建てられました。
 公園付近には松岬神社、上杉記念館、上杉神社、稽照殿(けいしょうでん)、米沢市上杉博物館などが建ち並んでいます。
 上杉謙信は天正6年(1578)3月13日、越後の春日山城内で49年の生涯を閉じました。大乗寺良海を導師として荘厳な葬儀が営まれ、遺骸は甲冑を着せかめに納めて密閉して葬ったそうです。移封により会津若松城へ、さらにここ米沢城に移されたのです。
謙信公祠堂跡
 招魂碑は慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争で新潟方面で西軍と戦った米沢藩士280名と、明治10年(1877)の西南戦争の戦死者52名を慰霊するために建てられました。
招魂碑


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