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上田市(うえだし)は、長野市と佐久市の中間にあり、上小(じょうしょう)地方の中心都市です。長野県内では長野市、松本市に次ぐ3番目の規模の都市で、国際会議観光都市に指定されています。
上田市には信濃国府があったと推定され、信濃国分寺跡や国分尼寺跡の遺跡があります。また信濃国総社と推定される科野大宮社もあります。天慶元年(938)、平将門の乱が起こり、平定するために送られた平貞盛の軍と戦になりました。国分寺と千曲常田河原が戦場になり、信濃国分寺諸堂と科野大宮社の社殿楼門が焼失したといわれています。
鎌倉時代後期、塩田に本拠をもった幕府執権の北条氏の一族が、前山寺、安楽寺、北向観音などを庇護して「信州の鎌倉」と呼ばれる独自の文化を開花させました。
鎌倉幕府が滅びたあとは海野氏に支配されました。天文9年(1540)の海野平の戦いで村上、諏訪、武田の連合軍が勝ち、村上氏が領しました。
その後、武田領となり、臣下であった真田氏が治めました。武田氏が滅亡後、真田は領主として君臨し、天正11年(1583)には帰順していた徳川家康の力を借りて上田城を築きました。その後、家康が真田領であった沼田領を北条家に渡す裁定を下したことから対立し、天正13年(1585)に第1次上田合戦が始まりました。徳川の7千人の大軍を、わずか2千人の兵で打ち破ったのです。関ヶ原の戦いの際も真田昌幸、幸村父子は西軍について2千5百人で上田城に籠城、巧みな戦法で、徳川秀忠の3万8千人の大軍を翻弄し、7日間上田に釘づけにし、関ケ原での石田三成との決戦に間に合わせませんでした。しかし関ケ原の戦いは、石田方の敗北に終わり、昌幸と幸村は、九度山に幽閉されました。上田城は徳川に接収され、ことごとく破壊され廃城となりましたが、東軍についた昌幸の長男の真田信之に引き継ぐことができました。元和8年(1622)、信之は藩替えで松代に移封し、仙石忠政が6万石で入封しました。忠政、政俊、政明と3代続いた後、宝永3年(1706)、松平氏が藩主となり明治維新まで160年、7代世襲しました。 |
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